我々人類の脳の性質かも知れないのだが、
一見関連がないと思われる所に関連があると、
興奮をはじめるものである。
たとえば、シミュラクラ現象
(ランダムな模様に三つ点があると、
顔に見える現象。心霊写真はこれが起きやすい。
実際のところ、
草むらに隠れる捕食者を見つける本能的なもの、
視神経の回路に先天的な現象らしい)。
たとえば、職場の男女が急にフランクになったり、
急に疎遠になったりして、
「あやしい」と思う現象。
その疑惑の芽が出たら、急にみんな推理好きの名探偵になる。
「そういえば同じコーヒーを買っていた」とか、
「そういえば同じ趣味だった」とか、
過去と現在を線で結ぼうとする現象。
私たちは世界の変化に敏感だ。
いつも買っていたドリンクがもうないと知るとき、
「全国的にこのファンは少なかったのか」
「○○と競合したのだな」
などと、余計な理由まで考えてしまうものだ。
それは、
「世界は目に見える部分は一部でしかなく、
目に見えない部分の作用がどこかで起こっていて、
目に見える部分に影響を与える」
ということをなんとなく分かっていて、
「世界が変化したということは、
何かあったからだ
(目に見えない部分の何かがあり、
それがここに影響している。
それは何だろう)」
と思い、理解して、安心したくなるのではないか。
壁の染みに顔らしき模様が浮かべば、
「江戸時代に惨殺された武士の怨念である」とか、
「堕胎した子の水子であり、お母さんにありがとうといいに来た」とか、
「これはシミュラクラ現象に過ぎない」とか、
何らかの「関連づけによる説明」を、
求めてしまうのである。
そして一端理解したら、
「あれは○○だよ」と、「評価を確定させる」。
「ナントカさんとナントカさんは、付き合ったっぽいけど、
盛り上がらずにすぐ別れたっぽい。
だけど友達関係として良好」
のようにだ。
目の前に見えるものが、
いつもと違うことで注目する
→その背後に隠された因果関係、納得行く理屈を考えたり、
仮説を立てて検証する
→過去に分かっていること、これから起こることを含めて、
最終型を見極める
→完全に理解する
→あれは○○である、とラベリングし、
以後、似たようなものに出会うと、あれは○○である、
と判断するし、他人にもそう説明する
という行程である。
これは、我々の物語の理解過程そのものである。
あるいは、我々は現実を、このような物語として理解する。
科学もそうだし、ニュースもそうだ。
何故ニュースの基本5W1Hが、
架空の物語にも有効なのかというと、
私たちの理解そのものが、そういう行程だからではないだろうか。
これはあくまで僕の仮説だ。
科学とは、2W1Hのみが大事だ。
Whoever, Whenever, Wherever、つまり、
いつどこで誰がやっても再現性があることを扱う。
What, Why, Howだけを扱う。
だから点Pのような抽象化が起こるのだね。
さて、現実のこのような関連づけによる理解と、
架空の物語の、このような関連づけによる理解とは、
何が違うのだろう。
それは、「その過程が面白いかどうか」と、
「ラストに来たときの、人生に与える意味」ではないかと、
僕は考えている。
たとえば、ベッキー騒動は、
下手な架空の物語の展開を追うよりも、全然面白かった。
我々フィクションの書き手は、
この過程の面白さを越えなければならない。
あるいは、フィクションがリアルを越えられるのは、
「一体それが何であったか」が、
きちんと整理されている時である。
ベッキー騒動は、結局騒いだだけで、
意味なんてなかった。
「嘘をつけば叩かれる」「line流出こええ」
「○○クズ」ぐらいしか、確定した意味はない。
それを知るためだけに、
我々がベッキー騒動を追いかけていたかと思うと、
いやそうじゃないよと言いたくなる。
しかしフィクションの場合は、
「この結論のために、全ての物語があったのだ」
と言われて、深く感銘を受けなければならないのである。
それが、人の手で最初から最後まで創られたものの、
宿命である。
ドラマ風魔を例にひけば、
ラストに「人の心に暖かい風を吹かせる」と言われて、
そうだよな、と腑に落ちるから、
フィクションとして納得がいくのである。
全てはこのためにあったのだな、と
「○○」が確定するのである。
てんぐ探偵第一話のラストの台詞(ネタバレしない)
も、同じ役割をしていること、
それがテーマを明示ではなく暗示していること
(○○を言うのではなく、○○と分かった上で言った発言)
が、私たちの心に、話が落ちた、という感覚を与えている。
つまり、フィクションは、落ちなければならない。
落ちがあるとは、
この話には○○という意味があったのだ、
と私たちが理解することである。
グラフィック的な、
同じものだけど違うものを並べる、
物理的スプレッドにも、そういう要素はある。
我々が視線を動かし、それぞれの要素を結びつけていく過程においてだ。
ところがその視線の動かしかたは、人によって違うため、
過程と結論が一致するとは限らない。
逆に言えば、
時間軸のある物語とは、
強制的に視線の順番を固定して、
強制的に与える情報の順番を固定して、
特定の理解(結論)に至らせるように、
関連づけによる面白さを固定したもののことを言う。
洗脳の道具と同じである。
宗教の経典の内容は、初期は物語だった。
最近は科学だ。
あとは、それが面白いかどうか、
意味があるかどうかで決まるのである。
言ってることは分かった、じゃあどうすりゃいいんだ、
って話に次はなるだろう。
つまりは、
焦点とターニングポイントを上手く使いながら、
観客の意識に起伏を起こし、
ストーリーラインを交差させ、
感情移入を思い切りさせ、
感情をぐるんぐるん振り回し、
緊張と弛緩をコントロールし、
カタルシスを生み出し、
気づけばしっかりした構成のもとにでき上がっていたことが、
あとで分かるようにしておけばいい。
僕がグラフィックチームがCMを作ることを鼻で笑うのは、
こういうことを何一つ出来ないからだったりする。
さあ、ムービーチームは、
日々これらの武器を磨く日々を、送っているよね?
2016年06月18日
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