なんだか僕はアドリブ否定論者のようだけど、
アドリブを否定したら予定調和になってしまう。
予定調和は予定調和で、それはちっとも面白くない。
アドリブの良くない所は、
構造を持った構成を作りにくいところにある。
数分以内ならなんとかなっても、
数十分、数時間のアドリブはカオスにしかならない。
物語とは、秩序による理解なのだから、
カオスから読み取るべきものは生まれない。
(精々、こういうことがしたかったのだろうが、
いまいちだったなという散発的印象に過ぎない)
ただし。
あまりにも秩序と論理で敷き詰めると、
予定調和になってしまうことは知っておいた方がいい。
予定調和というのは一般的な言葉で、
ムービーの世界ではダンドリという。
段取りくさいことは、映画ではあってはならない。
全ての展開は驚きをもって迎えられるべきだし、
観客の予想を越えてナンボという部分もある。
第一、ダンドリだと分かってしまったその先を、
我慢して見る努力をする必要は、観客にはない。
ところが、カオスに終わってしまっても納得もいかない。
この二律背反こそが、難しいところなのである。
正解は、
一見アドリブであるかのような、
先の読めない危うい展開であるにも関わらず、
要所要所に計算され尽くした片鱗が見えて、
終わってみれば全ては必然であり、
美しい整理整頓がなされていた、
夢中で気づかなかったが、
である。
こういうのは、どうやって作ればいいだろう。
構成を事前にしっかりやっておくことだ。
練って練って、ダンドリをきちんとつけておくことだ。
プロット段階で美しく無駄のないものを作っておくことだ。
そして、それを一端忘れて、
アドリブで執筆をするといい。
そうすると、理想の形に近くなると思う。
計画は脚本家的に、
お芝居は役者的に、
やるとよい。
計画は頭でやり、
執筆は体でやるとよい。
初心者の頃は、ガワに目を取られ、本質まで洞察力が届かないから、
まずはアドリブや表現を鍛えるといい。
中級者の頃は、プロットやダンドリを鍛えることだ。
しっかりした構成に、鍛えたガワを被せることだ。
上級者になると、またガワに帰ってくる。
新しい表現を常に追い求め、面白い骨格をも作り上げ、
両者を融合させることでオリジナリティーを作っていく。
初心者の書くものは、アドリブで不安定だ。
中級者の書くものは、しっかりしているが予定調和的だ。
上級者の書くものは、不安定で先が読めないのに、
しっかりと構成があって最後に腑に落ちる。
多分そういう感じである。
ここを読んでいる人がどの段階にいるのかよくわからないので、
人によって響く所は違うかも知れない。
ちなみに宮崎駿が上級者だったのは、
紅の豚までだと思う。
もののけ以降は、元上級者でしかない。
どれも構成力がガワに負けて、ストーリーとしては破綻している。
(アニメーションはストーリーが一番であるべきか、
という更に外の問いもあるが、ここは脚本論なので、
脚本第一主義の立場から述べておくことにする)
ピカソがキュビズムに行ったのは、
実はデッサンという構成そのものを新しくした結果に過ぎない。
(ピカソは伝統的デッサンの達人であることは有名だ)
それに、とんでもない色というガワを被せていったのである。
晩年の手塚治虫は、構成力は切れに切れていたものの、
ガワであるところの絵の魅力に悩んでいて、
大友克洋の出現に衝撃を受けたと言われている。
僕の記号的な(ディズニー的な)絵柄はもう古い、
と言っていたと思う。
手塚ですら、ガワの更新に悩んでいたのかと思うと、
急に私たちと同じ道の人なのだなと理解が進むものだ。
話が逸れた。
アドリブを学べ。
アドリブを捨てろ。
構成力を学べ。
予定調和を捨てろ。
もう一度アドリブを練って、無意識に構成せよ。
究極のアドリブをマスターせよ、とも言えるし、
究極の予定調和をマスターせよ、とも言える。
2016年06月19日
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