2016年06月19日

予定調和とアドリブ

なんだか僕はアドリブ否定論者のようだけど、
アドリブを否定したら予定調和になってしまう。
予定調和は予定調和で、それはちっとも面白くない。


アドリブの良くない所は、
構造を持った構成を作りにくいところにある。
数分以内ならなんとかなっても、
数十分、数時間のアドリブはカオスにしかならない。

物語とは、秩序による理解なのだから、
カオスから読み取るべきものは生まれない。
(精々、こういうことがしたかったのだろうが、
いまいちだったなという散発的印象に過ぎない)

ただし。
あまりにも秩序と論理で敷き詰めると、
予定調和になってしまうことは知っておいた方がいい。
予定調和というのは一般的な言葉で、
ムービーの世界ではダンドリという。

段取りくさいことは、映画ではあってはならない。
全ての展開は驚きをもって迎えられるべきだし、
観客の予想を越えてナンボという部分もある。

第一、ダンドリだと分かってしまったその先を、
我慢して見る努力をする必要は、観客にはない。


ところが、カオスに終わってしまっても納得もいかない。
この二律背反こそが、難しいところなのである。

正解は、
一見アドリブであるかのような、
先の読めない危うい展開であるにも関わらず、
要所要所に計算され尽くした片鱗が見えて、
終わってみれば全ては必然であり、
美しい整理整頓がなされていた、
夢中で気づかなかったが、
である。

こういうのは、どうやって作ればいいだろう。

構成を事前にしっかりやっておくことだ。
練って練って、ダンドリをきちんとつけておくことだ。
プロット段階で美しく無駄のないものを作っておくことだ。

そして、それを一端忘れて、
アドリブで執筆をするといい。

そうすると、理想の形に近くなると思う。

計画は脚本家的に、
お芝居は役者的に、
やるとよい。

計画は頭でやり、
執筆は体でやるとよい。



初心者の頃は、ガワに目を取られ、本質まで洞察力が届かないから、
まずはアドリブや表現を鍛えるといい。
中級者の頃は、プロットやダンドリを鍛えることだ。
しっかりした構成に、鍛えたガワを被せることだ。
上級者になると、またガワに帰ってくる。
新しい表現を常に追い求め、面白い骨格をも作り上げ、
両者を融合させることでオリジナリティーを作っていく。

初心者の書くものは、アドリブで不安定だ。
中級者の書くものは、しっかりしているが予定調和的だ。
上級者の書くものは、不安定で先が読めないのに、
しっかりと構成があって最後に腑に落ちる。

多分そういう感じである。
ここを読んでいる人がどの段階にいるのかよくわからないので、
人によって響く所は違うかも知れない。


ちなみに宮崎駿が上級者だったのは、
紅の豚までだと思う。
もののけ以降は、元上級者でしかない。
どれも構成力がガワに負けて、ストーリーとしては破綻している。
(アニメーションはストーリーが一番であるべきか、
という更に外の問いもあるが、ここは脚本論なので、
脚本第一主義の立場から述べておくことにする)

ピカソがキュビズムに行ったのは、
実はデッサンという構成そのものを新しくした結果に過ぎない。
(ピカソは伝統的デッサンの達人であることは有名だ)
それに、とんでもない色というガワを被せていったのである。

晩年の手塚治虫は、構成力は切れに切れていたものの、
ガワであるところの絵の魅力に悩んでいて、
大友克洋の出現に衝撃を受けたと言われている。
僕の記号的な(ディズニー的な)絵柄はもう古い、
と言っていたと思う。
手塚ですら、ガワの更新に悩んでいたのかと思うと、
急に私たちと同じ道の人なのだなと理解が進むものだ。


話が逸れた。


アドリブを学べ。
アドリブを捨てろ。
構成力を学べ。
予定調和を捨てろ。
もう一度アドリブを練って、無意識に構成せよ。

究極のアドリブをマスターせよ、とも言えるし、
究極の予定調和をマスターせよ、とも言える。
posted by おおおかとしひこ at 12:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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