2016年06月20日

何故脚本力が落ちたのか?

何回か議論しているけど、
今回は、「脚本を読む力」について語ってみようと思う。

脚本を読むのは、小説を読む能力とは違う。
小説を読むように脚本を読むのは間違いだ。
脚本を読むのは、楽譜を読むのに近い。
楽譜を読むときは、頭の中で演奏や編成をする。
同様に、
脚本を読むときは、頭の中で芝居をし、撮影をし、
編集が出来なければならないのである。
(小説を読むときに出るイメージではなく、
映画の上がりとしてイメージするということ。
すなわち四角のフレームの中にカット割りされたモンタージュで、である。
実際のところ、絵を分離して考えられなければ意味がないのだが)

そうじゃなければ、脚本を読む資格はない。
日本語で書いてあるものだから、
五線譜のコードより読めると勘違いしてしまうのが、
脚本の問題点だ。

「絵が想像できないから分かりにくい脚本である」
という感想は、脚本が読めてない人のものである。
脚本は、中身とガワのうち、中身だけを記述したものだ。
絵(ロケーション、アングル、トーン、衣装、特殊効果)や、
音(芝居、音楽、効果音、間)はガワであり、
中身(意味、ストーリーライン、動機、行動、ターニングポイントなどなど)
が脚本の書くべきことである。
「この中身に○○なガワを被せると良さそうだね」
「どんなガワでもこの中身じゃダメだ」
などが、脚本を読める人の感想だ。

脚本力の低下は、
脚本を読める「特殊能力」がある人が減ったことによる、
というのが以下の論旨である。


脚本家だけが脚本を読めるのではない。
映画作りに携わる全ての人が脚本を読む。

監督、カメラマン、照明、美術、
スタイリスト、ヘアメイク、音楽、効果、録音、
俳優、アクション班、特殊効果班、
ラインプロデューサーなど、
いわゆるメインスタッフとキャストたち。

助監督、撮影助手、照明助手、美術助手、
衣装助手、ヘアメイク助手、音楽助手、効果助手、録音助手、
特殊効果助手など、
実際に汗を流す多くの人々。

これらは実際に現場で働く人だが、
現場以外で働く人もいる。
芸能事務所、制作進行、宣伝部、プロデューサーなどだ。

基本的に、映画はプロデューサーがビジネスの一番ヘッドであり、
全てのスタッフはプロデューサーが雇う。

企画を(昔は)プロデューサーや脚本家や監督が立ち上げ、
脚本を仕上げて、これでいこうと各スタッフを集めるわけだ。

つまり、
「あとは各スタッフがやること」以前を、
脚本で詰めるのである。

脚本(中身)がフィックスしてから、
ガワを考え始めるわけだ。

ストーリーが決まってから、
たとえば主人公がどういう服を着ているかとか、
どういう部屋に住んでいるかをデザインしていく。
(勿論大まかには決まっているが、
実際のブランドや置いてあるものや間取りなどを、
予算を睨みながら揃えはじめるわけだ)


昔は、と書いたのは、
近年この原則が崩れているからである。
元凶は制作委員会方式である。

制作委員会方式とは、数億かかる映画ビジネスにおいて、
制作資金調達のため、
映画会社内部だけでなく、
外部企業から資金を集める方式だ。

外部企業の主なものは、テレビ局や音楽会社、
芸能事務所、銀行、各企業の投資部門、地方観光自治体、
などである。

さあここからだ。
彼らは制作のプロではない。
だから、脚本が読めない。少なくとも読めない前提だ。
だから、ガワで誤魔化して資金を調達しなければならない。
人気芸能人が出ます、
人気音楽がタイアップです、
人気原作の実写化です。

中身ではなく、ガワで億単位のビジネス(の資金)が動くのである。
作る前から資金を集める仕組みが間違ってるかも知れない。
出来上がってから、さあこれに張る人!という入札方式なら、
誰もうんこ実写「ガッチャマン」を買わなかっただろう。

「ガッチャマン制作委員会」は、
人気芸能人(松坂、綾野、濱田、剛力ほか)、
人気音楽(バンプ)、
人気原作(アニメの金字塔、傑作)、
そして撮影前に作っていたGスーツ(億がかかっているらしい)、
ビジネス展開プラン(宣伝は日テレがやる、ポスターイメージ、
タイアップグッズなど。日テレ前ではガッチャマンピンボールすらあった)、
そしてそこに添えられた、読めない台本、
の「ワンセット」に、
騙されたといっても過言ではない。


問題は、脚本が読めない人が、
脚本以外の要素に博打を張ることである。

ここに、日本映画の根本的問題がある。

脚本が読めない人は、何をもって脚本の出来不出来を判断するのか?
すごい人が書いたから(じゃあ鳥山明の新作は成功するか?、
あるいは無名の新人はどうすれば認められるのか?)、
あるいは、すごい話を元に書いたから、
という二つしか、今のところないのが、
根を深くしているといってよい。

さらに問題は、
映画会社が自社資金調達ではなく、
制作委員会方式前提で育ったプロデューサーたちが支配的になってきたため、
脚本を読めるように鍛練を積んだプロデューサーが、
絶滅しかかっていることだ。
(プロデューサーの仕事が、
脚本を読み、開発することよりも、
多数の素人たちを繋げて座組をすることがビジネスの主要になっているから)


よく、「なんであんなホンにゴーサイン出したんだよ」
なんて素人でも言うけれど、
プロデューサーたちは、本気でいいと思ってる可能性があるのだ。
(某映画会社のプロデューサーは、
「海猿(完結編)」の脚本を読んで号泣したそうだ。
僕も秘密で読ませて頂いたが、カスみたいな出来だった。
仕上がりは言うまでもない)



ようやく本題。

では、どうすれば脚本を読めるようになるのだろう?

実務を積むことしかないと思う。

脚本が最初にあって、実際にガワを被せたとき、
あの脚本がこうなるんだ、という経験を、何度も積むしかないと思う。
「ここからここまでは脚本でやるべきこと」
「ここからここまではガワでやるべきこと」
の区別が、想像できなければ、脚本を読めるとはいえないからだ。

その上で、
「いい脚本といいガワで、名作になった」
「ダメ脚本といいガワで、微妙作になった」
「いい脚本なのにダメなガワだけど、なかなかいい」
「ダメな脚本でダメなガワは、救えない」
ことを、実地で学ぶべきだ。
つまり、順列組合せ的には1/4しか正解のない事例を、
3/4の失敗例とともに、沢山体験することである。

ようやくそこで、いい脚本がないと、
あとで何してもダメなのだ、
と分かり、
ガワに左右されない中身を抽出する力が、
備わるべきなのである。

じゃあいい脚本ってなんなんだ、
いい台詞だけじゃダメだ、
いいキャラだけでもダメだ、
どんでん返しだけでもダメだ、
伏線だけでもダメだ、
テーマだけ重厚でもダメだ、
時代性だけでもダメだ、
サブプロットだけ良くてもダメだ、
ということを、
ようやく知っていくのではないだろうか?


勿論、自分で書いてみるという勉強法もある。
野球を観戦するには、やってみる、という方法論だ。
自分の理解してなかったことを知ることで、
プロの仕事の理解が深まるということは、
よくあることである。
(たとえば医者や弁護士でもそうだろう。
まあ技能習得には10年単位かかり、
なおかつ才能も必要なのだが)



本題だ。

脚本力が落ちたのは、脚本家の脚本力が落ちたこともあるが、
それ以上に、脚本が読めない人が増えたのだと考えられる。

漫画にたとえれば、編集者はネームが読めるが、
その編集者の他に素人投資家が沢山来て、
ラフじゃよくわからないと言っていて、
じゃあ分かるように清書をいくつかして、
その段階で意見百出を調整し、
半分清書が終わった漫画家に、
その意見こみで最初から漫画を書き直してくれ、
と言っているようなものだ。

新人編集者は意見調整のスキルを磨くうちに、
そのうち社内にネームを読める編集者がいなくなってしまったような感じが、
今の映画会社のような気がしている。

勿論壊滅的なわけではなく、
脚本が読めるプロデューサーもいる。
しかしその人はそれから先、ビジネスとして立ち上げる力がなかったりする。
何故ならビジネスとして動き出すのは、資金調達出来てからだからだ。



さあ、ことは脚本力の問題ではなく、
複雑に絡んでいることが分かるだろう。

これがここ十年ぐらい、僕が苦しんでいる壁である。

勿論、僕に脚本力や才能がない可能性もあるが、
どうやら書いたものは面白いと言ってくれる人がいることから、
そう外れてはいないと思っている。


脚本が読めるプロデューサーがあまりいないことは、
「いけちゃんとぼく」のときに、
角川のプロデューサー全員が脚本を読んで、
八割方いけちゃんの正体が分からない、
と発言したことや、
今スクリーンにかかっている邦画が、壊滅的に面白くない事実からの、
推定に過ぎない。

少なくとも、
面白い脚本→いいガワを被せる→名作ばんばん誕生、大ヒット回転、
というループが回ってないことは確かだ。



これから脚本家になろうとしている諸君は、
脚本が読める人たちばかりではないという、
覚悟を決めるぐらいしかないだろうね。

少なくとも、中身とガワを分けて考えられることが、
脚本家としての最低条件ではあるけれど。

いつも思うのだが、
折角中身を上げていった脚本打ち合わせで、
「話はいいと思うので、ガワはどうしよう」
と話し出す人がいる。
ヘトヘトになってそれはあとからなのに、
それに付き合わなきゃいけなくて、
でよくよく聞いてみると話の理解をしてなかったので、
ガワしか発言できない、なんてことが、まれによくある。
一から話を説明すると、そういうことだったのか、
なんて言ったりね。


脚本は、日本語で書いてあるから、誤解がしやすい。
なるべく分かりやすく書くこと、ぐらいしか私たちのやるべきことはないかもしれない。

そもそもガワで左右されないことを書く。
日本映画の脚本力が最近微妙なのは、
そもそもそういう脚本を歓迎する人が減ったからかもだ。
posted by おおおかとしひこ at 18:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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