2016年06月21日

脚本を読む力

前記事の続き。

たとえばドラマ「風魔の小次郎」については、
脚本、絵コンテをここに公開している。
(風魔カテゴリを掘ってって下さい)

たとえば一話の脚本だけを見て、上がりが想像できないのなら、
脚本を読む力がないと言えるだろう。
(上がりはDVDレンタル、セルなどをご覧ください)


脚本を読んで、
風魔と夜叉の学ランが、
黒の模様入りと、紫の玉虫色であることを、
想像できた?
いや、そんなの無理だよね。
絵コンテにもそれは書いてない。

じゃあ脚本を読む資格がないってこと?
違う。
読み方が間違っている。

学ランが、
黒と黒になろうが、
緑とピンクになろうが、
白とグレーになろうが、
艶黒と銀になろうが、
なんになったとしても、
この話の面白さが変わるわけではないことに、
気づけるかどうかなのである。

学ランの色は、最初からイメージがあるのではなく、
「対立する忍の集団」という、ストーリー的な意味から決めることであり、
それは、あってもなくても、
ストーリーそのものには関係がないのである。

だから、脚本にも、絵コンテにも書いてない。
(絵コンテはアングルとカット割り、秒割りを決めるものである)

逆に言えば、
学ランの色に左右されない話を、書いているということである。

だから学ランの色は、
脚本を読み込んで、
「対立する二陣営がわかった方がいい」
「忍者っぽい色合いがいい」
「一発で正義と悪がわかる方がいい」
「原作の、学園に忍ぶという学ラン設定をゆるく生かしたい(ここは僕の要求)」
「舞台版に共用(ここはプロデュースサイドの要求)」
「かつ予算以内」
「かつ制作委員会に入っているコスパティオが衣装を販売できるもの
(これが貧弱なので、これは僕が断った。
その代わり、ボタン類やアクセサリーはコスパティオのものを使った)」
などの条件を満たした上、
全体の見え方、スタイリッシュに見えたいという僕のディレクションで、
最終的にあのような衣装になったのである。

勿論、学ランの色が新しく何かを語るのではあるが、
基本は「対立する二陣営」を意味として持っていれば、
あとはデザイン的に上手くいっていればいいわけだ。


つまり、学ランは中身に影響のない、ガワである。


ロケーションのサッカー場はどうだろう。
予算の関係で、地下駐車場こみのアメフト練習場しか借りられなかったのは痛かった。
女子サッカー試合という文脈に、ノイズを入れてしまった。
(まあサッカー場が良くて地下駐車場がヘボかったら余計ダメなので、
背に腹は変えられない予算なわけだ。水を使って汚すし)

文脈が、
「凄い応援団の敵高校と、校内でも期待されていない、
女子サッカー試合」
でありさえすれば何でも良かったのだが、
予算がそれを下回ったわけだ。

そういうときは二種類ある。
予算に合わせて文脈を書き換えるか、
ええいと押しきるかである。
風魔は深夜枠だから、無茶した方が面白いし、
車田的である、と僕が責任を持った。
大きくは正しかったと思っている。
(勿論、しょぼいと非難した当時の視聴者は沢山いたよ。
でも意味的スケールダウンの妥協はしなかったのだよ。
ここが味噌汁矜持とは違うところだ)


こういう話を、
脚本だけを読んだ状態で、
議論できるかどうかなのだ。

たとえば、
キャストについては、
僕は「役に合う人を選ぶべき」と譲らなかった。
(実はオススメと言われた半分ごり押しキャストを、
僕は落とした。その人はその後半引退状態で、
僕はその人の落ち込みに手を貸したわけだ。
役者もプロダクションも持ちつ持たれつ、に僕はヒビを入れてしまった。
しかし役に合うかどうかが、オーディションの要なのである)

先にキャストのスケジュールを確保しておいて、
この人をこの役に割り振ろう、
という学芸会方式ではないのである。



脚本を読めない人は、
「○○というあなたもよくご存じの人が、
こういう服を着て演じます」
と写真で見せないと、イメージできない、などとのたまうことがある。

違うのである。
役がどういう人物像であり、どういう文脈を生きているか、
というところを書くのが脚本であり、
イメージはそれに合わせてあとで作るのだ。


じゃあ、文脈ってなによ。

目的である。

目的同士のぶつかり合いである。

それらの交錯の結果、どうなって、
次に何が起こって、…最終的にどうなって、
各自の目的がどう終わったかである。
(もう少し複雑なのだが、一番の骨格を示している)


それが面白いかどうかが、
脚本が良くできているかどうかであり、
それを読み取れているかが、
脚本を読めているかどうかだと思う。

逆に脚本が読めていれば、
「学ランの色は何がいいと思う?」と聞かれたら、
「同じ色だと、対立する二陣営と分かりにくいのではないか?」
と答えられるはずである。
「あとはセンスなので、違う色に見えたらなんでもいいや、
センスのあるスタイリストや監督に任せるよ」
と判断出来るのが、
脚本が読めているということなのである。



これらは、全てのディテールに言えることである。
アングルはヨリがいいかヒキがいいか、
音楽はこれか、タイミングは、
芝居の感じは、テンポ感は、
金のかけるところはここでよいか、
武器のデザイン、アクション台本、
などなど、多岐に渡ることは、
全て脚本の文脈を、ベストに見せるために構築するのである。



脚本が読めているということは、
中身とガワを切り離して考えられる、
ということに他ならない。
中身だけを抜き出して議論できる、ということである。

それには訓練がいると思う。

で、僕の言いたいことは、その訓練をした人が、
最近愕然と減ってるのではないか、ということだ。
未熟な人が前線で討ち死にしまくっている、
太平洋戦争末期みたいになってるのではないか、ということである。



脚本を読む力。
ひょっとすると、脚本について、
どれだけ真剣に考えて、向き合ったかが出るのかも知れない。

あるいは逆に、ガワのエキスパートになったとき、
足りないのは、ガワに出来ない中身なのである、
と気づく時かもしれない。

これは、たとえば、歌詞とメロディーの関係と同じかも知れない。

僕は、歌は詞先であるべきだ、と言っているわけだ。

詞を読めなければ、メロディーもつけようがない。
音楽業界は、メロ先になってからダメになったと僕は思う。
メロディーがそんなに重要なら、インストをやればいいのに。
posted by おおおかとしひこ at 01:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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