今時こんな言葉を解説してる映画入門書も、
もうないかも知れない。
昔は、大体1ページ目あたりによくこれが書いてあった。
ふとこれは、脚本の本質であるということにも気づいた。
映画は、1秒あたり24コマで作られる。
注意したいのは、これらは全て静止画というところだ。
フィルム映写機では、
1コマの写真を1/48秒映写、
1/48秒間ランプを消している間に、
次のコマを装填、
ランプをつけて次のコマを映写、
というループを続けているわけだ。
(実際には、ランプのついている時間は1/48秒よりは長く、
ランプの消えている時間のほうが短いため、
私たちは映像が点滅していることに気づかない)
これが、SDテレビの30コマ(30インターレス)、
HDテレビの30プログレッシブ、
4Kの60プログレッシブになろうが、
腰を前に出すのと引いてる、2コマを繰り返すパカパカアニメだろうが、
どれも原理は同じだ。
つまり、静止画を連続して流すと、
私たちはそれを動画だと感じるということ。
実際には動いていないのに、
そこに「動いている感じ」を感じる現象を、
仮現運動錯覚という。
エジソンの映画の発明以降、動画は存在していない。
静止画の連続を、私たちは動画だと錯覚しているだけである。
それは、フィルムだろうがブラウン管だろうが、
液晶だろうがプラズマだろうが、
有機ELだろうがスマホだろうが、
全て同様の原理、
静止画を動画と錯覚する、仮現運動によっているのである。
つまり、
動きそのもの、
リアルワールドにある、
物体が動くことは、映像には存在しない。
全ての動きは、「私たちの脳内」に存在する。
さて。
これは、以前から言っている、
「話の流れは目に見えず、
脚本そのものにも書いていない。
話の流れは私たちの脳内にあり、
それをあるように、脚本家が作ることである」
という僕の仮説を裏付けていると言える。
脚本そのものに、話の流れや動きそのものを記述することは出来ない。
静止したいくつかの状況を並べて、
動きを「感じさせる」しかないのである。
つまりは全てはアニメーションだ。
動きは、最初と最後と、間の中割で決まるのである。
その中割をどれだけ密に作るか、疎に省略するか、
スムーズなのかダイナミックなのか、
その辺にセンスが出るというわけだ。
話の流れを作るには、
焦点を明らかにし、それを追わせることだ。
そしてそれをターニングポイントで方向性を変えることだ。
話とはつまり、焦点に夢中にさせることに他ならず、
それは脚本中に明示されず、
暗黙の流れの中にしかない。
そして仮現運動の原理から、
それらは静止したものの「間」に、架空に存在する。
つまり、私たち脚本家は、
とある話が動き始めたら、
それらをスライスされた状況の連続としてしか、
話を記述出来ないというわけだ。
どこまで細かく描きこむか、
どこまで大胆に省略するか、
その具合は、
場面そのものにはなく、
場面と場面の繋ぎという仮現運動の中にある、
というわけだ。
下手な人は、ストーリーが動いている感じを書けない。
ぶつ切りでぎこちなく、仮現運動がカクカクしているのだろう。
うまい人は、ストーリーの動きを感じさせ、
時に綿密に、時に大胆にすっ飛ばして、
仮現運動を想像以上につくって行く。
静止した文字をどれだけ見ても、
ストーリーの動きは書いていない。
ストーリーの流れや動きは、それそのものの中にあり、
それは仮現運動なのである。
2016年06月24日
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