何故なら、それが定着の強さと関係するからである。
あなたが何かを書くとき、
物語でないもののときは、
ラストはどう締めるだろうか?
依頼文、説明文、メールやラインやツイッター、
逆に論文。
最後の最後は短く簡潔にするだろう。
そのほうが力強くなるからだ。
力強いとはすなわち、一点突破する力があるということだ。
結論が曖昧なものは、その文の存在価値が曖昧だということである。
自信のない告白と、自信のある告白を並べればわかる。
「…えっと、そういうわけで、
友達としてもこれからやっていきたいし、
でもそれ以上の関係にもなりたいし、
あ、でも、恋人とは違うというか、
つまり、僕らなりの関係を…」
「手を握っていい?」
どちらが記憶に残るか、
どちらがハッキリした意味をもつか、
どちらがキャラが立つか、
どちらが訴えていることが明瞭か、
明らかである。
だがしかし、ラストだけシンプルにしたとしてもダメである。
それまでに納得しているから、
ラストのだめ押しが効くのだ。
最初からいきなり手を握ってもダメである。
それまでに論を展開し、反論も抑え込み、
興味をもち納得のいく展開があり、
これは一体どういうことなのか、
きちんと理解させ、
附に落ちたうえで、
ラストをシンプルに決めると、
そこで「確定」するのである。
それまでの形のないモヤモヤが、その形に受肉する、
と思うといい。
人の認識の機構のようなものだ。
人間は、曖昧で広範なものを、そのまま記録、記憶することが出来ないと思う。
たとえば数学の証明を全部覚える人はいない。
前提と結論だけを覚えていて、
あとは矛盾なき納得のいく展開があったことだげを覚えているものだ。
(伏線やどんでん返しぐらいは覚えているかもだが)
つまり、それがどれだけ良くても、
結論しか記憶に残さない。
逆に、結論でそれをブックマークしておいて、
必要なときは圧縮記憶から展開させるのである。
人間の作業領域には限界があるから、
そうやって机の上に広げたり、
引き出しにしまうようにしているのである。
その引き出しについているラベルが、
シンプルで強い結論であるほど、
目立ち、強い引き出しになるということである。
物語におけるラストの落ちも、同様である。
それまでの展開全てを、
落ちでうまく一行、一場面にまとめること、
落としこむことが出来ると、
強力に記憶に残すことが可能である。
実際は、落ちをラベリングするのではなく、
「あれは良かった」なんて、さらに曖昧なラベリングになることが多いけど。
なので、それを思い出すには、
「タイトルと良かった感じのペア」としてタグづけされてしまう。
多くの人々の映画の感想が、
「良かった」と、部分の文句になるのは、
こういうメカニズムではないかと考える。
実際、僕はここで2500の脚本論を展開しているが、
それを全て記憶している人などおらず、
「おもしろい」という記憶程度で、皆さんはラベリングしているだろう。
日々膨大な情報に流される中で、
それだけラベリングするので精一杯だからだろう。
(もう少し人生の中心になると、個々のパーツに
分けて覚えることがあるかも知れない)
タイトルは、物語の最後に来る、と言ったのは誰だか忘れてしまったのだが、
それが本質を表す短いものであればあるほど、
ラストのラベリングと同じ効果があるというわけだ。
(数学でも定理の名前がそういう奴は記憶に残りやすいよね。
中心極限定理とか、波動方程式とか。逆にラグランジュ方程式とか、
人の名前がついていて本質を表してない奴は覚えにくい)
さて。
あなたの落ちはなにか。
シンプルで、今までの全てを一言にまとめると、
切れのいい落ちになる。
つまり落ちとは、「まとまり」のことである。
明日更新予定のてんぐ第三話、「爆音ギタリスト」は、
そういう落ちになることが気持ちいいのだと、僕に気づかせてくれた作品だ。
おたのしみに。
2016年06月30日
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