多くの人は、
芝居とは表情とか、目つきとか、仕草のことだ、
という先入観があるような気がする。
それはそういうところを惚れ惚れと見ているからだろう。
ところが、知っている役者のそういう所を見るのは、
芝居を見ているわけではない。
知っている人の好きなところを眺めて、愛でているだけだ。
正確にいうと、
それは役を見てなくて、
その役者を見ているにすぎない。
芝居は顔芸ではなく、声芸である。
これは僕の芝居の見方である。
根拠は、クレショフのモンタージュ実験にまで遡る。
これは「時間軸を操る人」には、是非知っておいて欲しい法則である。
ある情動を起こすカットのあとに、
役者の無表情のカットをつなぐと、
その情動を示すリアクションを、
上手に取っているように見える、
ということをロシアのクレショフが発見した。
これが編集理論の基礎になっている。
極端なことを言えば、
大根役者でも、周りのカットを編集でつくれば、
いい感じの芝居をしているように、
「創る」ことが出来るという原理なのだ。
つまり、下手くそなイケメンや美人は、
そこで何も言わず立ってろ、
と指示し、
あとはモンタージュをすると、
上手い芝居をしているように見えるのである。
これは、モデルを撮るときのやり方でもある。
CMでいい感じに見えるのは、
いい感じに何も言わさずにモデルを撮り、
インサートカットなどとモンタージュ効果をつくり、
上手いこと繋ぐとよいのである。
つまり、能面の原理だ。
文脈を読み取った我々が、
「表情に感情を投影してしまう」のである。
だから、下手に表情を作らないほうが、
編集の素材としては使いやすい。
従って、
「お前はただそこに立ってろ(無表情で)」
という指示が、一番最終的に、
編集で使える素材を撮るコツだったりする。
これは、下手な演技などするな、という指示で、
ある意味モデルをバカにしているわけだ。
逆に、
芝居の出来ないイケメンモデル、
芝居の出来ない美女モデルは、
喋らないときに一番輝いた芝居をしている。
(ように見える)
だから、目線や表情や仕草などを見て、
いい芝居をしているなどと思うのは、
素人の見方に過ぎない。
クレショフのモンタージュ実験、
モンタージュ効果(あるもののあとに別のものを繋ぐと、
単独では存在し得ない意味が発生する)
を知らずに、騙されているわけだ。
騙しているのは役者ではない。
そのように撮影し、編集した監督である。
素人でも物凄くよく見える編集があって、
笑顔や踊っているところ、なにかをじっと見ているところなどを、
うまいことつまみ、その人の趣味、
たとえばスポーツとカットバックする。
そこにいい感じの音楽を被せてみるとよい。
その素人が、とても生き生きと見えるはずである。
これは、ブライダルビデオの編集の手法だ。
ダンナと奥さんでそれぞれ編集し、
いずれ出会ってツーショットになるだけで、
この結婚がとても素敵なものに見えるという、
モンタージュである。
(特に名前がついていないので、ブライダルビデオモンタージュとでも言うか)
これはCMでもよくある、
芝居の出来ないアスリートや文化人をよく見せる為の編集法だったりする。
モデルとの違いは、イケメンや美女かどうかという、
違いに過ぎない。
で、アップの無表情しかないのだから、
美しい方が良さげに見えるだけの原理なのだ。
こんな今でも通用する原理を、
クレショフは1922年、約100年前に既に分かっていたわけである。
さて、ということで、
芝居の本質は顔芸などではない。
これはモンタージュでいくらでも作れる。
芝居とは声だ、というのが本題である。
僕はオーディションのときに何を見るかというと、
第一に台詞の読み方だ。
顔はほとんど見ない。オーディションに来る以上、
不細工は来ないと踏んでいるからである。
(不細工狙いのオーディションはまた別ね)
顔で落とすのは、メインと被るなどの物理的理由だったりする。
台詞の意味をどう把握しているかは、
読み方でわかる。
文字面の意味と、文字面にある背景文脈を、
きちんと表せるかどうかという所を見る。
(見るというより、聞いている)
たとえばドラマ風魔の小次郎役のオーディションでは、
「抜き足、差し足、忍び足。この湯煙には俺の奥飛騨慕情が…」
なんてベタベタな台詞を書いたと思う。
(17歳相手なので、オンエア版はもう少しまろやかになってます)
つまり、「本当の忍びが忍び足」というメタネタを使えるほど、
小次郎は客観性のあるお調子者であるということと、
姫子を覗きたいことをエロネタで美しく言おうとしていること、
それが昭和からの使者であること、
それが笑えるほど洗練されているかどうか、
というあたりを見たわけだ。
それをそのように演じられる役者は、それほどいない。
そこまで「理解」しないからである。
また理解しても、肉体という楽器が美しく鳴るかどうかはまた別だし。
(たとえば俺が演じると、単なる少年の心を失わない、
中年おじさんの昭和ギャグに見えるだろう。高田順次までつき抜けられれは別だけど)
村井は理解していたし、演技が好感度が高かったので、
一番いいと思ったわけである。
先輩の監督から指摘されて気づいたのだが、
僕は声のいい役者を採用する傾向にあるらしい。
男だけでなく女もだそうな。
風魔でいえば、丸山(紫炎)なんて典型だよね。
紫炎役は、役自体は誰にでも出来るわけだけど、
丸山がやったことによってとても印象的になったのは、
彼の声の要素が大きいと思う。
原作と、白虎と役が逆だとよく言われたが、
ヤスカ(白虎)のアクションを使わない手はないからね。
原作どおり、ヤスカを紫炎役にしていたら、
「紫のヅラの人」の個性は出来上がらなかっただろうね。
芝居とは、台詞をどう言うかで決まる。
それは、
台詞の文字上の意味と、
言外にある意味と、
両方を表現しているからである。
台詞というのは、本来そう書かれる。
文字上の意味と、言外の意味と、大きな文脈が、
重なっているように書かれている。
それをその通りに出力出来ている人が、
僕は優れた役者だと考える。
たとえば、福島原発事故のドキュメントドラマがあるとして、
枝野役の人の、
「ただちに影響はございません」
という記者発表の台詞に、
このように言わないとパニックが起こるから、という意味と、
それを言わされている、という意味と、
わかる人はわかってくれ、という意味をこめるのは、
台詞の読み方だと思うよ。
表情や目では、意味が強すぎるからね。
表情や目ではあくまで平静だけど、
現場の揉まれた感じに疲れメイクをして、
震えながら言った言い方に、意味のニュアンスを込めるのが、
芝居として一番上等になりそうだ。
つまり、表情や目は、ひとつの意味しか伝えられない。
声は、読み方で複数のニュアンスを伝えられる。
言葉には表と裏があるからである。
もちろん、ひとつの言葉にひとつの意味しか書いてない、
ヘボな台詞ならどちらでもいい。
最近はそんなヘボ脚本だらけだから、
イケメンや美女が黙ってるほうが、
よく見えているのかも知れないね。
芝居は台詞だ。
つまりそれは、脚本は台詞だ。
しかし言葉通りの意味しかない台詞はヘボだから、
脚本は文脈と台詞だ、ということになる。
つまり、芝居は文脈と台詞だ。
台詞を必要とせずに文脈を伝える、
つまり目線や表情で出来るなら、それも芝居だ。
ということで、やっぱりイケメンや美女の、
表情や目線ばかり追ってしまうのだけれど。
あなたは騙されないことである。
2016年07月03日
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