2016年07月03日

芝居は声だ

多くの人は、
芝居とは表情とか、目つきとか、仕草のことだ、
という先入観があるような気がする。

それはそういうところを惚れ惚れと見ているからだろう。
ところが、知っている役者のそういう所を見るのは、
芝居を見ているわけではない。
知っている人の好きなところを眺めて、愛でているだけだ。

正確にいうと、
それは役を見てなくて、
その役者を見ているにすぎない。

芝居は顔芸ではなく、声芸である。
これは僕の芝居の見方である。



根拠は、クレショフのモンタージュ実験にまで遡る。
これは「時間軸を操る人」には、是非知っておいて欲しい法則である。

ある情動を起こすカットのあとに、
役者の無表情のカットをつなぐと、
その情動を示すリアクションを、
上手に取っているように見える、
ということをロシアのクレショフが発見した。

これが編集理論の基礎になっている。

極端なことを言えば、
大根役者でも、周りのカットを編集でつくれば、
いい感じの芝居をしているように、
「創る」ことが出来るという原理なのだ。

つまり、下手くそなイケメンや美人は、
そこで何も言わず立ってろ、
と指示し、
あとはモンタージュをすると、
上手い芝居をしているように見えるのである。

これは、モデルを撮るときのやり方でもある。
CMでいい感じに見えるのは、
いい感じに何も言わさずにモデルを撮り、
インサートカットなどとモンタージュ効果をつくり、
上手いこと繋ぐとよいのである。

つまり、能面の原理だ。
文脈を読み取った我々が、
「表情に感情を投影してしまう」のである。

だから、下手に表情を作らないほうが、
編集の素材としては使いやすい。
従って、
「お前はただそこに立ってろ(無表情で)」
という指示が、一番最終的に、
編集で使える素材を撮るコツだったりする。
これは、下手な演技などするな、という指示で、
ある意味モデルをバカにしているわけだ。

逆に、
芝居の出来ないイケメンモデル、
芝居の出来ない美女モデルは、
喋らないときに一番輝いた芝居をしている。
(ように見える)



だから、目線や表情や仕草などを見て、
いい芝居をしているなどと思うのは、
素人の見方に過ぎない。
クレショフのモンタージュ実験、
モンタージュ効果(あるもののあとに別のものを繋ぐと、
単独では存在し得ない意味が発生する)
を知らずに、騙されているわけだ。
騙しているのは役者ではない。
そのように撮影し、編集した監督である。

素人でも物凄くよく見える編集があって、
笑顔や踊っているところ、なにかをじっと見ているところなどを、
うまいことつまみ、その人の趣味、
たとえばスポーツとカットバックする。
そこにいい感じの音楽を被せてみるとよい。
その素人が、とても生き生きと見えるはずである。
これは、ブライダルビデオの編集の手法だ。
ダンナと奥さんでそれぞれ編集し、
いずれ出会ってツーショットになるだけで、
この結婚がとても素敵なものに見えるという、
モンタージュである。
(特に名前がついていないので、ブライダルビデオモンタージュとでも言うか)

これはCMでもよくある、
芝居の出来ないアスリートや文化人をよく見せる為の編集法だったりする。

モデルとの違いは、イケメンや美女かどうかという、
違いに過ぎない。
で、アップの無表情しかないのだから、
美しい方が良さげに見えるだけの原理なのだ。

こんな今でも通用する原理を、
クレショフは1922年、約100年前に既に分かっていたわけである。



さて、ということで、
芝居の本質は顔芸などではない。
これはモンタージュでいくらでも作れる。

芝居とは声だ、というのが本題である。


僕はオーディションのときに何を見るかというと、
第一に台詞の読み方だ。
顔はほとんど見ない。オーディションに来る以上、
不細工は来ないと踏んでいるからである。
(不細工狙いのオーディションはまた別ね)
顔で落とすのは、メインと被るなどの物理的理由だったりする。

台詞の意味をどう把握しているかは、
読み方でわかる。
文字面の意味と、文字面にある背景文脈を、
きちんと表せるかどうかという所を見る。
(見るというより、聞いている)

たとえばドラマ風魔の小次郎役のオーディションでは、
「抜き足、差し足、忍び足。この湯煙には俺の奥飛騨慕情が…」
なんてベタベタな台詞を書いたと思う。
(17歳相手なので、オンエア版はもう少しまろやかになってます)
つまり、「本当の忍びが忍び足」というメタネタを使えるほど、
小次郎は客観性のあるお調子者であるということと、
姫子を覗きたいことをエロネタで美しく言おうとしていること、
それが昭和からの使者であること、
それが笑えるほど洗練されているかどうか、
というあたりを見たわけだ。

それをそのように演じられる役者は、それほどいない。
そこまで「理解」しないからである。
また理解しても、肉体という楽器が美しく鳴るかどうかはまた別だし。
(たとえば俺が演じると、単なる少年の心を失わない、
中年おじさんの昭和ギャグに見えるだろう。高田順次までつき抜けられれは別だけど)

村井は理解していたし、演技が好感度が高かったので、
一番いいと思ったわけである。


先輩の監督から指摘されて気づいたのだが、
僕は声のいい役者を採用する傾向にあるらしい。
男だけでなく女もだそうな。
風魔でいえば、丸山(紫炎)なんて典型だよね。
紫炎役は、役自体は誰にでも出来るわけだけど、
丸山がやったことによってとても印象的になったのは、
彼の声の要素が大きいと思う。
原作と、白虎と役が逆だとよく言われたが、
ヤスカ(白虎)のアクションを使わない手はないからね。
原作どおり、ヤスカを紫炎役にしていたら、
「紫のヅラの人」の個性は出来上がらなかっただろうね。


芝居とは、台詞をどう言うかで決まる。
それは、
台詞の文字上の意味と、
言外にある意味と、
両方を表現しているからである。

台詞というのは、本来そう書かれる。
文字上の意味と、言外の意味と、大きな文脈が、
重なっているように書かれている。

それをその通りに出力出来ている人が、
僕は優れた役者だと考える。


たとえば、福島原発事故のドキュメントドラマがあるとして、
枝野役の人の、
「ただちに影響はございません」
という記者発表の台詞に、
このように言わないとパニックが起こるから、という意味と、
それを言わされている、という意味と、
わかる人はわかってくれ、という意味をこめるのは、
台詞の読み方だと思うよ。
表情や目では、意味が強すぎるからね。
表情や目ではあくまで平静だけど、
現場の揉まれた感じに疲れメイクをして、
震えながら言った言い方に、意味のニュアンスを込めるのが、
芝居として一番上等になりそうだ。

つまり、表情や目は、ひとつの意味しか伝えられない。
声は、読み方で複数のニュアンスを伝えられる。
言葉には表と裏があるからである。


もちろん、ひとつの言葉にひとつの意味しか書いてない、
ヘボな台詞ならどちらでもいい。
最近はそんなヘボ脚本だらけだから、
イケメンや美女が黙ってるほうが、
よく見えているのかも知れないね。


芝居は台詞だ。

つまりそれは、脚本は台詞だ。

しかし言葉通りの意味しかない台詞はヘボだから、
脚本は文脈と台詞だ、ということになる。

つまり、芝居は文脈と台詞だ。


台詞を必要とせずに文脈を伝える、
つまり目線や表情で出来るなら、それも芝居だ。

ということで、やっぱりイケメンや美女の、
表情や目線ばかり追ってしまうのだけれど。

あなたは騙されないことである。
posted by おおおかとしひこ at 01:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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