2016年07月08日

単独行動

物語はコンフリクトだ、なんて言いながら、
一人の時がないわけじゃない。

単独行動のとき、三人称型の物語では何をするか。


一人称小説では、
一人でいるときこそがメインだろう。
その人の中の思考や思いを表現する、
メイン舞台といっても過言ではない。

しかし三人称型の映画ではそういうことは出来ない。
地の文がなく、
音声として発する台詞か、
動作(パントマイムを含む)でしか、
伝える手段がないからだ。
(例外はナレーションや字幕だが、多用は出来ないので、
最初から0と扱おう)

だから、映画では、大抵二人以上がシーンに存在している。

今焦点になっていることを、
するか言うかで表現するためだ。
独り言をブツブツ言わせない限り、
言うときは相手がいなければならない。
(実はこれは、三人称型の大きな制約だったりする)

逆に言うと、
「Aのことを知らない人にAのことを説明する」という形態で、
我々作者はAの情報を観客に伝えているのである。

また、情報が分かっているとき、
無言で行動すると、観客はその人の動機や目的を察する。
そうやって、
台詞と芝居で物語を進めるのが、
三人称型の映画的台本であった。
(ここまで復習)


とはいえ、一人芝居がないわけではない。

私たちは一人でいるときも多い。
独り暮らし、一人で仕事をするとき、
誰にも言えない秘密を抱えているとき、
などは、単独行動が増える。

朝起きて会社に行き、何か仕事をし、
飯も一人で食べ、
同僚とあまり喋らず、
一人で帰宅し、ネットをやり、寝る、
という毎日を繰り返している人も多いから、
単独行動は、現代のリアルでもある。


さて、一人芝居はどうか。

まず喋らないから、情報を与えることがとても難しい。
電話はいい小道具だ。誰かとしゃべれるので台詞を書ける。
厳密には一人芝居じゃないね。
となると、無言で所作をするしかない。

ということで、
単独行動のときは、
「黙々と何かをする」以外は殆ど何も出来ないのである。

もうひとつある。
「何かを見て、反応する」である。

実は、映像における一人芝居はこれしか出来ない。

(演劇の場合は、饒舌な独り言を言うことが出来る。
一種の一人称にしてしまうわけだ。
同様にナレーションや字幕で一人称独白を重ねることは、
ないではない。しかし主観AVのように、その思考は邪魔だ。
主観は感情移入ではないのだ)


もし、一人芝居がとても効果的に働くとしたら、
「佇んで何かを考えているとき」ではないだろうか。
もちろん、何を考えているか観客が分からないのはダメで、
どういう文脈で一人になっているか、
分かっているときが、文学的な瞬間になるだろう。

振られた男が、一人で屋上で佇んでいる。
仕事に疲れた男が、ある日通勤電車に乗らず、海行きの電車に乗る。
娘の出ていった部屋に、母親が入る。(これは春のNHKでやったね)

こういう、「その人の思うことを想像する瞬間」は、
結構、実に映画的かも知れない。

ちなみに「アニーホール」や「大人は分かってくれない」では、
ラストにこれをカメラ目線でやってくる。
強いラストとして、一種のイコンになったね。
「汚れた血」では、可変撮影で現実を歪めた走るカット。
「ロッキー」では、止めゴマだった。



人は、何を思うのか。
これは文学の中心的モチーフのひとつだ。

一人芝居は、そういうときに有効だ。


「いけちゃんとぼく」では、
その思考の相手役としてのイマジナリーフレンドを出したけど、
上手く行ってない所もある(予算の)のが残念だ。


こういうことは自分で小説を書いてみて理解したことだ。
地の文は、三人称型では表現できない、
内面を描くことが出来ると分かった。
分かったからこそ、一人芝居でしか出来ない、
一人で無言でいる瞬間を、
三人称芝居に組み込む意味が分かったとも言える。

いつもは周りと賑やかにしていたり、
誰かとバチバチしていたりしていても、
ふと一人になる瞬間が人間にはある。

それをちゃんと書けるには、年季がいる。
(手っ取り早いのは動物を出して独り言を言わせることかな)
posted by おおおかとしひこ at 12:31| Comment(5) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いつもブログ楽しく拝見させてもらっております。

単独行動という記事のなかにいけちゃんについて記述がありましたのでこちらで質問させていただきます。

いけちゃん劇中で、ヨシオが排水溝に寝そべって空を見上げる(そのあと水がドバーっと吹き出きたような・・・)シーンがあったかと思うのですが、あのシーンの「意味」はどういったものだったのでしょうか・・・。

僕の文脈を読む力が足りず、理解できなかったので質問させていただきました。

Posted by KYKY at 2016年07月11日 15:10
KYKY様コメントありがとうございます。

あのシーンはちょっと前後の文脈が足りなくてねえ。
あの前まではずっといけちゃんがそばにいて、
「隣町への冒険のとき、はじめてヨシオは一人になる」という話だったんです。
ところが撮影直前の予算1億削減CG会社に断られる事件で、その前のいけちゃんの出番が大幅に削られ、大きな意味の取りにくい文脈になってますね。

意味としては「死の光景の追体験」ということです。
「ドブにはまって死んだ」ことが葬式で言われています。
これで言われのないいじめを受けるのも脚本の初期稿にはあったのですが、ひどいという表面的な理由でカットされてしまいました。
(このへんでもう脚本がよれてるんです。そこに気づいてリライト出来なかったことが、このブログの基礎になっていたり)

その後の生活排水を浴びることといい、
「人の死はたいしたことないかも知れない」と、
子供がさとる原動力のひとつになっています。

うーむ。今一度脚本リライトしてえ。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年07月11日 16:08
ご回答有難うございます。

な、なるほど・・・そこまで読み取れませんでした。

(制作時のごたごたで大量に予算カットされ、一部のシーンが削除されたことは過去記事より存じてはおりましたが)

あのシーン観たときに葬式での死因をすっかり忘れていたので、「ドブにはまって死んだ」という情報とヨシオの行動をリンクできなかったのが理解できなかった原因でした。


ちなみに(意味が分からなかったというのもあり)あのシーンが一番印象に残っていますw

あと「ドブにはまって空を見る」という
現実に実行できるけどあんまりやらないこと
という点でも印象に残りやすかったのかな?と思います。
Posted by KYKY at 2016年07月11日 16:39
KYKY様コメントありがとうございます。

>現実に実行できるけどあんまりやらないこと
という意味で、まさに映画的ないい場面だとは思ってますが…
(オリジナルにはない僕の創作なんですけど、
オリジナル以上にサイバラの死生観に迫れたと自画自賛の場面)

場面だけじゃなくてストーリーラインなのだ、という僕の主張はこういう失敗の上にいるわけです。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年07月11日 17:02
意味がいまいち理解できなかった僕でも
シーンとしての印象は強かったわけですから
「いい場面」だと思います。

脚本力があり前後の文脈をくみ取って
意味を理解しつつ観れる人なら尚更。


しかもオリジナルなんですね。
いけちゃんは原作見たことがないのであそこも原作にあるシーンだと思っておりました。

オマケに予算もそんなに使わなさそうな(予想です)
カットですし、安くて良い仕事の典型だと思います。


初心者の拙い質問に丁寧にお答えくださり有難うございました。

Posted by KYKY at 2016年07月11日 17:19
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