「これは初心者すぎる質問では…」
「質問したいけど、そのトピックがないからどこに質問していいか分からない…」
「こんなこと聞いたら半年ROMれとか言われそう…」
そういう人はここへ質問してください!
最近上級内容が多くて、初心者おいてけぼりな気がします!
初心者が何がつまづくのか人によって違うので、
個別になら対応できるかも知れません!
聞くは一時の恥!
「質問者の名前 回答」
で検索すると、個別の質問への回答記事に飛べます。
2016年07月10日
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えんです。
いまさら聞けない質問が沢山あるので以下に書きます。
(優先順位の高い順に書きました)
1.登場人物表の年齢の書き方
数年間に渡る話の場合、登場人物は3つぐらいの違う年齢や職業で登場しますよね。
そういう場合、登場人物表にはどう表現すれば良いのですか?
また、シナリオ中、年齢が変わってから最初に登場したら又年齢を書く必要がありますか?
2.その人物をわからないように(本当は誰か伏せて)登場させる時もフルネームと年齢を書くものですか?
(例えば、影や手だけがうつるような場合)
3.セリフ中の“?”や“!”の後は必ず1文字空けるものですか?
4.“点描風に映す“という手法の使い方(ルール)がよくわかりません
使い方のルールがあれば教えて下さい。
また、そこに色んな場所が登場する場合、(シーンまるごと、時間の経過を表すために、点描風にする場合)柱には何と書けば良いですか?
5.映画とかを見ていると、ひとつの台詞を言っている間にどんどん場面(場所)が変わっていく手法がよく見られます。脚本ではどう書けば、そうなりますか?
6.カットバックの使い方(ルール)もよくわかりません。
柱、柱、カットバックという流れですか?では3つの場面を行き来する場合は柱、柱、柱、カットバックでしょうか?それで読む人に理解してもらえますか???
多くてすみません。よろしくお願いします。
今更であまり人に聞けないので、教えていただければです。
【板付きについて】
シーンが変わり、次のシーンになった時に、その場面で既に登場人物が固定でいる事を「板付き」と言うと思うのですが、この「板付き」の効用というか、「板付き」にする意味を教えていただければです。
以前に、かなり前なので詳細は忘れましたが、コンクールの批評で、「あの場面は板付きでするべきだった」という意味の文章を読みました。
特に何故かは書かれていなかったのですが、その言葉が頭に残っています。
勿論、シーンのつなぎや構成流れによって、選択肢は様々で、一概に言えないかも知れませんが、「こういう流れの場合や、こういうシーンの展開であったら、板付きにした方が、効果的だ」という事があれば、是非教えていただきたいです。
ざっくりしてしまって申し訳ありませんが、宜しくお願い致します。
宜しくお願いします。
よろしくお願いいたします。
質問が分かりにくいです。
誰の感情のこと?登場人物?観客?
「感情を学ぶ」ということ?ロボットが?
もう少し詳しく書いていただけると、意図が読めますが。
ちょくちょく、お世話になります。
ファンタジー作品において重要なのはいかに説明的にならず世界観を説明するか、だと思うのですが何かテクニックはないでしょうか。
また第一幕ではどれくらい世界観を伝えることができればOKなんでしょうか。
最低限こういうことは伝えたほうがいい、という要素があれば教えていただきたいです。
よろしくお願い致します。
えんです。
私も再度質問させていただきます。
1.音楽や映画について
脚本中に登場させたい音楽や映画作品について。自由に登場させても良いのでしょうか?
著作権等のからみで、許されないのでしょうか?
例えば、主人公が常に口ずさむ歌など。
例えば、レストランのBGMで流れる音楽
例えば、映画のワンシーンを台詞の中に入れたい時など。
2.板付き(柱の次に書くト書き)
板付きで始まる場合。
そこにいる全員の状態を柱の後に書くものですか?
例えば、刑事ひと班5人として、全員そこには居る(名前もある)。
しかし、そのシーンで台詞があるのは2人だけという場合、他の3人の状況も書くものですか?
新聞を読んでいるB、パンをかじっているCみたいに。
(つまりそのシーンに居るのが普通だが、特に役割がない人たちの行動?)
この辺が今一よくわかりません。
よろしくお願いします。
描いても描いてもなんとなく居心地が悪いのです。
これは本当に自分が描きたい話なんだろうか、描くべき作品なんだろうかと考えると手が止まってしまいます。
なんというか小手先で作ってる感じがするんです。こういう話ならこういうキャラを出し、こういう事件を起こせば面白くなるだろうな、ということしか考えていないというか。
もちろんそういう表面的な技術はお客さんを飽きさせないために必要なことです。でもその表面下にあるパッションというのでしょうか、何か(テーマ?)に対する愛というのでしょうか、そういうものが不足している気がして。
描きたい絵的なビジュアルはあるのですが、ビジュアルの下にあるテーマ性というかストーリー性がうまく把握できないんです。
曖昧な話で申し訳ありません、私自身が現在霧のような曖昧な場所にいるため曖昧なことしか言葉にできないです。
こういう悩みはいろんな物を見て読んでそして作品を作り続ければ自然と解消されるものなのでしょうか。がむしゃらに突き進めば霧を抜けることができるのでしょうか。
世界は広いのでどこから手をつけたら良いのか迷ってしまいます。
こういうものを先に作っておくと楽、みたいなものがあれば教えてください。
映画の作り方はどこまで漫画に適応できると思われますか?
ワンピースみたいな100巻を超えるであろう大長編漫画は映画と同じように作ることは難しいと思うのです。
映画の場合、始まりと終わりの展開を作り込み中盤のディティールを埋めていくという流れですがディティールを埋めると言う行為は2、3時間の尺だからこそ可能なのであって、長編漫画の場合中盤のディティールが何十巻にもなってしまうわけです。その何十巻というディティールを連載開始前から練りこんで計算通り物語を終わらせる、というのはかなり難しいのではないかと思います。(時間をかければ可能なのかもしれませんが果たしてそれほどの準備期間が与えられるかどうか・・・)
計算通り事を運べる限界の長さは10〜20巻くらいなんでしょうかね。
漫画家の方は物語の大まかな流れ、要所を決めておいて、あとは要所にたどり着くまでアドリブ(キャラ任せ)で・・・という方が多いように思います。
尺が長すぎるがゆえにアドリブに頼らざるを得ない、という事情だと思うのですが。
アドリブをうまく制御する方法ってあるんでしょうか。制御したらアドリブじゃなくなるから矛盾した発言かもしれませんけど。
映画でキッチリとした物語の構成とかを勉強してきたのでアドリブに任せるのが怖いんですよね・・・
よろしくお願いします。
自分が描こうとする世界の資料は必須として、どんな世界を描く際にも必要な基礎資料ってあるんでしょうか。国語辞典、敬語などの言葉遣いに関する本などは基礎資料かなと自分では思っております。こういったものを「資料」と表現するのはちょっと違和感ありますけど・・・
一話に関して質問なのですが、小次郎がサッカーの試合で「雑魚は倒したからあとは実力勝負だと思ったんだよ」という場面がありましたが、ここがすごく上手いと思いました。お調子者だがフェア性を重んじるという2面性が1場面の中に挿入されていて小次郎の人間性が深いレベルで伝わってきました。
キャラクターの二面性はどういうタイミングで出すのが効果的なんでしょうか。おおまかな法則などあれば教えていただきたいです。
あと女装してサッカーするというのも良かったです!
忍者がサッカーの試合に紛れ込むだけでも面白いのに、さらに女装(女子の試合)という捻りを加えるとは・・・忍者がサッカー+女装という面白さの2段構え!こういう捻りを加えられるようになりたいです。(私が監督だったら忍者がサッカーの時点で満足してしまったかも・・・)
それとも別の仕事をしているのでしょうか?
記事にするほどでもないので、ここで。
CM会社にいながら、色々やっています。
仕事としての脚本は、最近はwebの長い広告を書いたりする程度です。
自主的に映画やドラマ脚本などを書いて持ち込んでは、
オリジナルを断られる日々が続いています。
大岡さんのブログ上でご意見聞いてみたい疑問が浮かんだので、
質問させてください。
大岡さんのベストにも入っている、「ターミネーター」(今回は2も)について。
・感情移入対象がスイッチしていくのってアリなのか?
・超おもしろいけどメアリースーってる疑惑
ということです。
僕は「ターミネーター2」が生涯ベストなのですが、
このブログを読んできて認識している、
"良い脚本の条件"の中から、
"主人公のネガな状態なり動機なりを軸に主人公が一番がんばって変化して主人公がカタをつける"
"一番感情移入できるのが主人公であるべき"
を選んだ場合(この条件設定にズレがあると脱線していきますが)、
「ターミネーター」は1も2も、主人公がスイッチするかたちじゃないか?と思いました。
端的にいうと、それでいいんだっけ?でもおもしろいよな?なんでだろ?
確かに「逃げ切れるか」という焦点はブレずに突っ走りますが、
「ロッキー」とかに比べてこれ主人公は誰なんだっけ?という話です。
"感情移入ベース"で"主人公"を見て行き、
感情移入の感じ(主人公)とすると、
「1」だと、なんだこいつら?(まだ傍観者)、から始まり、
→カイルがんばれー(カイル)→サラ逃げてー(サラ)→ふたりがんばれー(カイルとサラ)
→カイル死なないでー!(サラ)→生きて行くわー!(サラ)になり。
まだサラベースなのがわかりやすいですが、
「2」に至っては、前作の続きとしてサラのモノローグから始まりつつも、
なんだこいつら?(まだ傍観者)
→ジョン逃げてー(ジョン)→サラを助けよう!(ジョン)→ジョンを守れるか?(サラ)
→ターミネーターお父さんみたい(ジョン/サラ)→ダイソンまじぶっ殺す(サラ)/ママ止めなきゃ(ジョン)
→ターミネーター僕をおいてかないでー(ジョン)→まとめのモノローグはサラ
となっていて、
「1」は一番変化するのがサラだとしても事件をおっぱじめるのはカイルだし、
特に「2」はラストのサムズアップはジョンの気持ちで見るのですが、
ナレーションでまとめてるのはサラだし、サラ最初助けられるだけだし。
という具合に自分で分析しててもこんがらがってきてしまいました。
そしてこのシリーズ、もしかしてややメアリースーってるんですかね?
「1」のサラは「ワタシ実は人類の救世主を生むの」
「2」のジョンも「実はオレ人類の救世主」って、
まさにハリーポッター状態というか、よくよく考えたら異世界でヒーロー的なラノベ設定じゃないか?と。
そこでよぎりました。
大好きなターミネーター、もしかして脚本としてはそこまで優れてないんじゃないか(ある定義においては)?
んーでもこの面白さは本物だよなぁ。
表現と快感原則にごまかされてるのかも?なんて思ったり。
「シンゴジラ」もよくよく考えるといい物語かというと確かにわりと薄いんですが、
見てるあいだの快感はなかなかにあることから
(庵野さんも"快感原則に沿ってつくってる"となんかで言ってました)思い至った疑問なんですが、
大岡さんが「ターミネーター」をベストに入れているのを思い出して、
大岡さんならぶっちゃけどう分析しているのだろうと聞いてみたいと思った次第です。
長々とすいません。ブログのネタに困ったら是非ご意見お聞かせください!
お訊きしたいことが二点あります。一つは、アフリカの少年兵の無軌道さを描いた「ジョニー・マッド・ドッグ」という映画を観て思ったのですが、この映画は三幕構成がはっきりしていないのにも関わらず、面白かったです。三幕構成かと言われればそうでもない、でも面白い。という“例外”はあるのでしょうか。もしあるとすれば、“例外”にも関わらず面白いのはなぜなのでしょうか。(人間が描けているから、だとは思いますが)もう一点は、表現をするということは、賞賛以外にも批判、中傷も受けることになります。大岡様はそういったものにどう対処されているのでしょうか。慣れるものなのか、それとも傷ついて凹んだり、モチベーションが下がって作品作りに手がつかないということもあるのでしょうか。以前、書かなければ死んでしまうから書く、と仰っていましたが、他人の評価などもはや知る由もない境地なのでしょうか。よろしかったらお訊かせください。宜しくお願いします。
逆に、何だと思いますか?
妥当な答えがない問いにみえます。
歴史的な議論もなさそうです。
論点が広範囲になりそうなので、
どういうことを議論したいのでしょうか。
そこで大岡さんのミッドポイント論をお聞きしたいです。どの脚本書を読んでもミッドポイントは重要だと書かれているので、ぜひお聞きしたいです。
質問です。
読みきり漫画を描くに当たって、「脚本論のこれは通用するけど、これはちょっと違うよ」なんて部分はあるのでしょうか?
連載ものではなく読みきりなので、より映画に近いのかな?と考えているのですが…
ちなみに30Pの少女漫画を描こうとしているのですが、これは脚本でいう「短編」を描くイメージで考えれば上手くいくのでしょうか?
前に16Pを描いたときは、ページ数に合わない話を選んでしまったせいか、感情おいてけぼり漫画を描いてしまいました…
よろしくお願いします。
ブレイクシュナイダーのビートシートは
ミクロなレベルにも適応できるのでしょうか?
A,B,C,D〜という全体の流れがあったとして
Aから小目的Bを達成するまで
Bから小目的Cを達成するまで、、、といった具合に
小目的間にもビートシートは適用できるのでしょうか。
それても何か別の考え方があるのでしょうか。
宜しくお願いします。
さきほど同じ内容の質問を投稿したのですがなぜかサイトに反映されていないためもう一度投稿しました。連投になってたらすみません。
といった文章をシナリオ指南本を読んでいたら見つけました。
伏線がなければ唐突な映画になってしまうのでは・・・
でも、この文章なにかが引っかかって気になります。(まだうまく咀嚼できてません)
なので大岡監督の解釈をお聞きしたいです・・・!
ハリウッドの創作技術を少年バトル系漫画に応用する場合、120ページで流れを作りそれを20ページなり40ページなり分割して連載していくという手法があると思いますがこれは自由度が少ない気がします。
現実的なフォーマットに合わせることを考えた場合、主要なポイントだけを取り入れて20〜40ページくらいでまとまった話を作る手法が妥当だと思うのですが、この場合に少年バトル漫画用に特化したマニュアルのようなものは考えられるでしょうか?
ブレイクシュナイダーのテンプレートを少年漫画用にカスタマイズできないかという発想です。
例えば少年漫画の場合、必殺技を繰り出すことが必要です。これは戦隊シリーズ的な展開でもありますが、こうしたものを作る際に助けとなるものがあったらと思い質問させていただきました。
「人間ドラマがある」「人間が描けている」というのは、具体的にはどういうことなのでしょう?
映画を見ていて「人間ドラマがある・ない」「人間が描けている・描けていない」の感覚は確かにあるのですが、言語化しようと思うと頭を抱えてしまいます。
各人物の動機・行動・ぶつかりあい(コンフリクト)・内心や内面の変化、をきちんと描けということなのでしょうか?
(それにかまけて今年は添削講座に応募できませんでした)
ここで学んだことを思い出しながら何度もリライトして、
よし通ったぞ!というホンでつくり、
編集も何度もやってつめていきました。
しかし完成披露試写会のあとの各方面(主に映画映像業界のプロたち)のフィードバックで
わりと共通で指摘される「ここが足りない」という部分がありました。
“主に虚無感をかかえる登場人物への感情移入のための具体的な1エピソードを
「現代においてはそこに明確な理由はないはず」というリアリズムに基づいた理由で
序盤に明示しなかった、しておけばよかった”
ということなんですが…。
言われてみれば、
いち観客として初見で観たら自分も同じところを指摘するかもしれない、
ということでした。
脚本段階では完成版よりはわかるようにシーンやセリフをつくっていたのですが、
説明過多と判断して編集段階で切った部分が読後の不満に響いた感じです。
こういうかなり基本的な部分に関して
信頼できる数人の知恵を借りてもなお
脚本段階で気づけないのはどういった原因があるんでしょうか…?
防げた事故のような気がしていて、質問した次第です。
経験を重ねるがひとつの解決策のような気もしますが、
脚本と完成映像作品の齟齬、というのは簡単に積み重ねられない経験のような気もしていて、
技術的な面での事前対策についてお考えがあれば教えて欲しいです!
何を書いても「この伏線ネタバレになってるんじゃないか?」
と疑ってしまう状態なのです。
ネタバレ要素って結構繊細だと思うので
自分がネタバレじゃないと思っていることが
結構ネタバレになってしまっていたり、みたいなことが
よくあると思うのです。
ネタバレになっているかいないかを
うまく判断する方法ってありませんでしょうか・・・?
キャラクターの死について質問です。
良い殺し方(こう書くとなんか物騒な言い方ですが…)とはどんなものでしょうか?
悪い殺し方との違いは何でしょうか?
(この場合の死というのは肉体的な意味のほかに
物語から退場するという意味です)
メインキャラの死亡というのはインパクトがあります。
なので僕は安易に使ってしまうのです。
今年の脚本添削スペシャルでもそうでした。
感覚的には良い死と悪い死があることはなんとなくわかるんですが
それを理論的に違いが分かるよう説明できません。
いったい、その違いとは何なのでしょうか?
宜しければご教授願いたいです。宜しくお願いします。
何故理系からある種文系に変更したのですか。
一次元性を知りながらも、riskはどんな感じで、
脚本外でお客さんに対する配慮等ございましたら
アドバイス宜しくお願い致します。
今の私には他人の作品を自分でリライトしきるだけの実力がなく、いつまでもそのダメな作品が頭に残ってしまい、とても苦しいです・・・
御都合主義についてお聞きしたいです。
ちょっと旬を過ぎた話題ですが、
「君の名は。」に対する批判の中に
「なぜ二人が入れ替わったのか理由づけがない」
「体が入れ替わったら真っ先に、
今自分がどこにいて西暦はいつかを調べるはず」
「たそかれ時に出会った二人、危機的状況であるにもかかわらず
イチャつくのはおかしい」
「お互いの連絡先くらいノートに書いとけ」
みたいなことを御都合主義だと批判する意見が見られます。
これとか。
http://blog.goo.ne.jp/nobubu_001/e/3e13b1d90001c5e42adf549bc07d7bca
確かにそうだとも言えるし、
でも別にそんな気にする必要もなかろうとも言えるような…
なんてことを考えていたら何だかよく分からなくなってきました。
御都合主義とは?それはどこまで許されるのか?
大岡監督にお聞きしたいです。
御都合主義についてお聞きしたいです。
ちょっと旬を過ぎた話題ですが、
「君の名は。」に対する批判の中に
「なぜ二人が入れ替わったのか理由づけがない」
「体が入れ替わったら真っ先に、
今自分がどこにいて西暦はいつかを調べるはず」
「たそかれ時に出会った二人、危機的状況であるにもかかわらず
イチャつくのはおかしい」
「お互いの連絡先くらいノートに書いとけ」
みたいなことを御都合主義だと批判する意見が見られます。
これとか。
http://blog.goo.ne.jp/nobubu_001/e/3e13b1d90001c5e42adf549bc07d7bca
確かにそうだとも言えるし、
でも別にそんな気にする必要もなかろうとも言えるような…
なんてことを考えていたら何だかよく分からなくなってきました。
御都合主義とは?それはどこまで許されるのか?
大岡監督にお聞きしたいです。
(すみませんうまく投稿できてなかったので再投稿です重複してたら申し訳ないです)
主人公は変化しなければならないというのが鉄則といわれています。
しかし、日本の映画やアニメなどでは主人公は変化しないでただの観測者のようになっていて、後から現れるヒロイン的なポジションの人が変化をしている作品が多く見られます。
これはどういうことなのでしょうか?後から現れたヒロインが主人公なのでしょうか?よくわかりません教えて貰えたら幸いです。
○(回想から戻って)ノイシュヴァンシュタイン城・ルートヴィヒ2世の寝室(日替・早朝)
のように長くなってどうしても二行に渡ってしまう場合、どのように書けばいいのでしょうか? 台詞のように二行目は一文字空ける、などの特別なことが必要ですか?
年齢について。最初の登場では「フルネーム(年齢)」という形で表記するとのことですが、これをどう解釈すればよいのかがよく分かりません。「最初の登場」というのは、いわゆる第1話での最初の登場だけのことではないという理解でいいのでしょうか? とりあえずサザエさんを例にすると、
磯野カツオ(11)と磯野ワカメ(9)、並んで登校している。
というようにどの話でも最初はいちいち「フルネーム(年齢)」という形で書くものなのでしょうか? それとも、
カツオとワカメ、並んで登校している。
という風に最初から苗字や年齢などは省いてしまい、必要な時(例えば波平の少年時代の回想など)だけ年齢を書くということもあるのでしょうか?
最近人間の変化というものが分からなくなってきました。
考えすぎて迷路に迷い込んでしまった状態です。
人間はどんな時に変化するのでしょうか。
そこらへんをうまく言語化できずにいます。
脚本を書いていて
「この程度のことで人は分かり合えるのだろうか?
価値観や考え方を変えるのだろうか?
必要なピースが足りていないのではなかろうか?」
などと疑心暗鬼になってしまいます。
ちゃんと描けてるかもしれません。
でもやっぱり描けていないのかもしれません。
人間はどんな時、何を経て価値観や考え方を改めるのか?を
明確に言語化できれば、必要以上に悩まずに済むのではないか
と思い質問させていただきました。
ストーリーとは関係のない質問で恐縮です
コンクール応募にチャレンジしたいのですが、映像化が約束されたものは(当たり前かもしれませんが)低予算が前提になっているようです。
この低予算というのが具体的にはどういうことなのかが素人にはわかりにくい。
登場人物が少ない方が良いのはわかります。
では撮影場所の数は具体的には何か所くらいまでOKでしょうか?(つまり同じ柱の数?)
またそれは室内と外に分けると、どういう数字になりますか?
種類(都内、近郊、田舎や山、温泉とか?)ではどうでしょう?
電車内なんてもっての他でしょうか?
民放の深夜ドラマ枠45分を前提にした場合です。
それを聞いたからといってその数に合わせることはできませんが、常識というものを知っておきたいので、できたら教えていただきたいです。
よろしくお願いします。
昨年の春に脚本家を志してから、数冊の脚本の教本を読んだほかは、こちらのブログを拝読して独学しています。監督(先生とお呼びするより妥当かと思いました)から日夜教わっていることをなんとか自分の作品に反映できないかと日々奮闘しています。
今、まさにコンクールに向けて原稿に取り組んでいますが、締め切りあとわずかにも関わらず実はまだ第一稿があがっていません。
というのもカード法を使って構成を考えた後のこと、たっぷり時間をかけて“全部入りプロット”をやっている最中にふと「このままでは間に合わない!」というあせる気持ちになってミッドポイントのところでやめ、“顛末プロット”を作り始めてしまいました。
そのプロットを元に原稿を書き始めたものの、案の定ミッドポイントのところから筆が進まなくなり、さらにはプロットで想定していたある条件を変更せざるを得ないことに気づいて、現在は原稿を最初から書き直しています。
構成を考えた後の熟成が足りなかったことや、全部入りプロットを完結させなかったことなど反省は尽きませんが、今はとにかく締め切りまでに原稿を終わらせようという方向で考えています。
さて、一度終わらせた原稿を別のコンクールに応募するときに参考にしたいのですが、うまくいかなかった原稿を再構築する場合、もう一度最初から作り直すつもりで構成を考え、熟成し、全部入りプロット、顛末プロットと手順を踏むべきでしょうか。一番大きいリライト→中くらいのリライト→細かなリライトの順で、土台は維持しつつ整えていく方針でもいいのでしょうか。
もちろん新作を考えて少しでも多くの原稿を床から身長分積み上げていく方がいいのだと思いますが、今回思いついたアイデアを納得のいくものにまで仕上げたい気持ちです。
まだまだ未熟な状態で、監督になにかお言葉をいただけるような者ではりませんが、いつかプロになって恩返しができるようになることを夢見ています。よろしくお願いいたします。
プロの現場の方たちはどのようにストーリーを学んでいるのでしょう?
そして、どのように「一緒に仕事をする人がストーリーだと思っているもの」を共有しているのでしょう?
○温泉旅館・外観(夜)
のようになると思いますが、次にそこの窓のない大広間のシーンを取るときなど、外の天気や時間帯などの指定が(撮影する際に限っては)必要ないと思われる屋内のシーンでも、
○同・大広間(夜)
とやはり書くべきなのでしょうか?
今話題の「カメラを止めるな!」はご覧になりましたか?
http://kametome.net/index.html
大変野心的で面白い作品でした。
既にご存知だったり鑑賞済みでしたらすみません。
とても良かったのでつい報告してしまいました。
質問じゃなくてすみません!
ガワと中身について質問です。
ある中身があったときに、その中身を伝えるためのガワはどういう基準で選ぶのがいいのでしょう?
きちんとした中身があればガワは交換が可能なので、どのガワがベターなのか?どのガワがベストなのか?がよく分かりません……
まるで共感ができない主人公では、観続けること自体が苦痛になります。それでも敢えてこういう魅力のない主人公を据えるとしたら、どうやって彼のこの先を観たいと感じさせればいいのでしょうか。変化の振れ幅が激しいほどドラマチックになりますが、匙加減が難しいとふと思い、書き込ませていただきました。
○(回想)南町奉行所・全景俯瞰(夕)
手許の参考書籍にもとづいて、自分は回想シーンをこのように書いていますが、夢だったり妄想だったりする場合はどのように書くべきなのでしょうか。
○(夢)省略
○(妄想)省略
基本的にはこのように同じ書き方でよいのでしょうか?
具体的には、「コメディ」風に思われるかもしれない話の引っ張り方だが、当事者は真面目にぶつかり合った「ドラマ」を作ったつもりです。が、「コメディ」にも終始コメディではなく終盤にほろっとさせたら「ドラマ」という印象になるような…と考えていくうちに、「コメディ」映画と言われるべきもの、言わない方がいいものの差に悩むようになってきました。
企画応募の際には何目線でジャンル指定をすべきなのでしょうか?
ここで教わったことを活かしながら小説を書いているのですが、どうやら自分は設定周りのバランス取りが苦手のようで、先日新人賞に応募していた小説も情報開示の段取りが拙いとの選評をいただいてしまいました。
選評での指摘内容から推察するに、一幕中盤から後半にかけての事件で使った設定が多く設定開示を詰め込み過ぎてしまったこと、脇役だと割り切って深堀しなかったキャラの掘り下げが足りなかったことが一因となっているようです。
その点を踏まえて改稿しようと取り掛かったのですが、自らが情報開示においての指針を持たず、情報面を感覚頼りで書いていたことに気がつきました。
そこで質問させていただきたいのですが、情報開示においても三幕法のような定石や組み立て方の基本、詰め込み過ぎにならないような設定量の目安や基準のようなものは存在するのでしょうか?
特に設定の詰め込み過ぎが自分では気がつきにくく、セルフチェックの目安があれば改稿時に見つけやすいのではと考えている次第です。
よろしくお願いいたします。