板付きについて。
板付きの逆を考えるとわかります。
Aを理解したいときは、
A以外(論理学的には^A)を理解すると境目が分かりやすいです。
シーン頭での板付きの話ですから、
反対は、「その場所にやって来る」、
つまり大きくはフレームインだということです。
違いはなんでしょう。
既にその場にいるA。
その場所にやって来るA。
の違いです。
Aは何て言うでしょうかね。仮に独り言を言わせてみましょう。
A「さあ、やるぞ」
A「ようやくここにたどり着いたな。よし、目的のあれをやるとしようか」
の差です。
つまり、板付きでは、ここに着いたという段取りが省略されてるわけです。
AとBがここで会う、という目的だったとしましょう。
板付き:
A「やっと本題に入れるな」
B「そうだ、例の件だが…」
やって来る:
A「やっと会えた」
B「すまない。時間とってくれてありがとう」
A「やっと本題に入れるな」
B「そうだ、例の件だが…」
の違いです。
答えはテンポではないでしょうか。
ABが男女で、両方やって来るのと、一人板付きから始める場合では。
渋谷109前。
ショーウィンドーで自分の姿を確かめ、Aがやって来る。
ケータイで時間を確認。
そわそわする。
楽しそうなカップルを横目で見て、自分もうまく行くだろうかと思う。
B、走ってくる。
B「ごめんごめん!」
A「遅いよ!」
A、腕を組む。
渋谷109前。
待っているA。B、走ってくる。
B「ごめんごめん!」
A「遅いよ!」
A、腕を組む。
シーンの焦点すら変わってきます。
前の例では、今日のデートはうまく行くだろうか、
という不安がメインになってくるでしょうし、
後の例では焦点はこれからのデートです。
焦点をコントロールすることは、
そこに焦点を当てるだけでなく、
余計なものを捨てることでも可能です。
その脚本家の例を見ないとこれ以上推測することは難しいのですが、
おそらく、テンポを失し、余計なものを入れてしまった、
と後悔してるのではないでしょうか。
ちなみに優秀な監督なら、
撮影はするけど編集で切って、板付きからはじめるかも知れません。
たとえば待ち合わせするときに、
軍隊のパレードがやって来るなんて金のかかる撮影をしてしまえば、
編集で全切りするのは勇気がいりますが。
さらにちなみに、
クリント・イーストウッド監督は、
板付きから使う予定だとしても、
ここに来るところからシーン台本を用意してるんだそうです。
ワンカットでシーンを撮影するため、
シーン頭の板付きからヨーイスタートすると、
シーン頭に役者の気持ちが入ってないことが多いからです。
ここに来るところからヨーイスタートすることで、
シーンに入ってくる時から気持ちを作らせる方法論なんですね。
役者は喜びますが、時間がかかるし、
現場の手間が増えるので、マネージャーに怒られます。
ずいぶん前のCMでやろうとしたら、
「余計なセリフ増やして」とマネージャーに怒られました。
つまり、「その場所や文脈になじむ」ことが、
その場で必要なら、やって来る形式で書けばよく、
不要なら板付きで十分、ということです。
ということは、前のシーンで、
どれだけ焦点が逼迫しているかにもよるわけです。
○前のシーン
ドク「そんな、雷が落ちる時刻がわかるわけないじゃないか!」
マーティ「(ビラを裏返して)分かるぞ!時計台だ!」
○時計台
二人は避雷針に電線を張り巡らしている。
おなじみ、バックトゥザフューチャーのクライマックスです。
(セリフや場面は適当です)
ここでの文脈は、「二人は未来に帰れるか」なので、
雷が落ちる数分前からはじめるべきで、
既に雷待ちの体勢であるべきです。
いちいち、「時計台にやって来るところからはじめて、
二人は避雷針に電線を巻きはじめる」からやる必要はないでしょう。
勿論、前のシーンでここまで緊急でなければ、
板付きが効果的かどうかはなんともです。
さらにちなみに。
シーンの終わりで板付きかどうか、
ということも考えるべきですね。
「この場所から立ち去って終わる」のか、
「立ち去る所まで描かず、カットして次へ」なのか。
上の例では板付き終わり、板付きはじまりで、
最も緊急のテンポを高めていることがわかります。
文脈によるので、使い分けが出来ないとだめでしょうね。
(使い分けが出来ずに何でもかんでも板付きにしてしまうのを、
二流といいます)
2016年07月13日
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膝を打つしかなく、納得な言葉ばかりでした。
>(使い分けが出来ずに何でもかんでも板付きにしてしまうのを、二流といいます)
これは正しく痛い言葉でした。
自分で書いたものを読み直すと、殆どが板付きにしており、緩急を付ける意味でも、わざと板付きじゃないシーンに変えてみたりもするのですが、読み直すと、「やって来る下り」必要だったかな?と思ったりしてました。
人物の全ての動きに意味があるはずで、作者都合で、動きを足しても意味はないですよね。
逆に、意味のある動きとして表現できれば、1つのシーンでの深みを作れるのかなと。
全ては作品が良くなるかどうかで、「この場合はこうするべき」という考え方に固執してはダメですね。そんな簡単な方程式を欲してもダメですね。
勉強になりました。
ありがとうございました。