2016年07月14日

デジタルは人を幸せにしない:相互監視社会

日本人は村八分の民族である。
江戸時代は村単位で八分が行われていたのだろう。
それは昭和まで続いた。
親戚一同、地域コミュニティ、会社ぐらいの単位が、
村の範囲だった。
人はその範囲、目の見える範囲で生きて死んだ。

ネットの発達によって、村が世界になってしまった。


昭和までは(2000年代くらいまでは)、村の監視外で人は息抜きをした。
秘密を沢山持っていただろうし、
それは村に対する秘密であれば良かったはずだ。

たとえば、西原理恵子という作家は、
その監視外を、どこにも所属しない草っぱらという舞台装置で描くのが得意だ。
(だから映画いけちゃんとぼくは、村と関係ない、
草っぱらが主舞台であるべきだと思った)
名作鳥頭紀行は、草っぱらは異国であった。
草っぱらから村の異常を相対化する、
西原はそういう作家だ。


人には村の中の自分と、草っぱらの中の自分がいるはずだ。


ネットの発達によって、
相互監視社会になった。
監視カメラはつきまくり、SNSで特定されまくり、
顔認証技術は、町にいるAV女優まで特定可能な所まで来た。
仲間受けを狙ったツイッターはバカ発見器になった。

みんなブログやツイートで村に発言し、
村からリアクションが来る。

村は人が思う範囲ではなく、世界の全員となってしまった。
なんせリンクを張れるからね。
自分の発言で炎上が起こり、村八分にされる範囲が、世界になってしまった。
ベッキーとかね。


さて。
草っぱらはどこにあるのだろう?
居酒屋とか、スナックとか、会員制クラブとか?
電波の届かない所ではないだろうか。

日本の息苦しさは、
自分も相手もみなさんも、全員が全員に監視されている、
村八分社会の息苦しさではないだろうか?

田舎社会の村社会が嫌で、みんな都会に出てきたのに、
そこはもっと巨大な村社会に過ぎなかったという、
昔話の落ちみたいになっている。


草っぱらで走ることを、いつの間にしなくなったのだ?

みんな覚えておこう。
人工知能を倒すには、水をかけたり斧で叩き割るということを。
草っぱらでは、水に濡れたりぶっ壊したりは当たり前だ。
でも草っぱらでは、そこから何かをつくることもできるんだ。

ネットは草っぱらだと、最初みんな勘違いした。
今ネットは、村になってしまったんじゃないか。
むしろ現実の方が草っぱらかも知れないぞ。
posted by おおおかとしひこ at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック