日本人は村八分の民族である。
江戸時代は村単位で八分が行われていたのだろう。
それは昭和まで続いた。
親戚一同、地域コミュニティ、会社ぐらいの単位が、
村の範囲だった。
人はその範囲、目の見える範囲で生きて死んだ。
ネットの発達によって、村が世界になってしまった。
昭和までは(2000年代くらいまでは)、村の監視外で人は息抜きをした。
秘密を沢山持っていただろうし、
それは村に対する秘密であれば良かったはずだ。
たとえば、西原理恵子という作家は、
その監視外を、どこにも所属しない草っぱらという舞台装置で描くのが得意だ。
(だから映画いけちゃんとぼくは、村と関係ない、
草っぱらが主舞台であるべきだと思った)
名作鳥頭紀行は、草っぱらは異国であった。
草っぱらから村の異常を相対化する、
西原はそういう作家だ。
人には村の中の自分と、草っぱらの中の自分がいるはずだ。
ネットの発達によって、
相互監視社会になった。
監視カメラはつきまくり、SNSで特定されまくり、
顔認証技術は、町にいるAV女優まで特定可能な所まで来た。
仲間受けを狙ったツイッターはバカ発見器になった。
みんなブログやツイートで村に発言し、
村からリアクションが来る。
村は人が思う範囲ではなく、世界の全員となってしまった。
なんせリンクを張れるからね。
自分の発言で炎上が起こり、村八分にされる範囲が、世界になってしまった。
ベッキーとかね。
さて。
草っぱらはどこにあるのだろう?
居酒屋とか、スナックとか、会員制クラブとか?
電波の届かない所ではないだろうか。
日本の息苦しさは、
自分も相手もみなさんも、全員が全員に監視されている、
村八分社会の息苦しさではないだろうか?
田舎社会の村社会が嫌で、みんな都会に出てきたのに、
そこはもっと巨大な村社会に過ぎなかったという、
昔話の落ちみたいになっている。
草っぱらで走ることを、いつの間にしなくなったのだ?
みんな覚えておこう。
人工知能を倒すには、水をかけたり斧で叩き割るということを。
草っぱらでは、水に濡れたりぶっ壊したりは当たり前だ。
でも草っぱらでは、そこから何かをつくることもできるんだ。
ネットは草っぱらだと、最初みんな勘違いした。
今ネットは、村になってしまったんじゃないか。
むしろ現実の方が草っぱらかも知れないぞ。
2016年07月14日
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