2016年07月14日

ツァイガルニク効果

ツァイガルニク効果
ツァイガルニク効果(ツァイガルニクこうか、Zeigarnik effect)は、人は達成できなかった事柄や中断している事柄のほうを、達成できた事柄よりもよく覚えているという現象。
(Wikiより)

つまり、きちんと落ちを着けた作品よりも、
未完のエヴァが気になり続けたり、
未回収の伏線が気になり続けたりする現象だ。
(うまくいかなかった恋愛の方が記憶に残ったり)


「家に帰ってからも何度もその作品を思いだし、
その含意についてずっと考える。
きっとそれは今の僕には分からないが、素晴らしい文学なのだろう」
なんて感想は、
糞映画がたまたまこの効果を発揮しているということだ。

「何かが残っている」なんて言うよね。
素晴らしさじゃなくて、ツァイガルニク効果である可能性は?


僕はいまだに「ニューシネマパラダイス」の、
姫の前で待ち続けた男の挿話の意味がわからなくて、
ずっと心に引っ掛かっている。
多分出来ていないエピソードなんだよな。
でも、傷みたいにずっと気になってる。
ツァイガルニク効果だ。
(それがなくとも素晴らしい映画であることは論を待たない。
完全版のほうが僕は好き)


じゃあ、ツァイガルニク効果を生む作品が、
きちんと落ちを着け、カタルシスで人の心を動かす、
完璧な作品より素晴らしいか?

完璧な美人よりちょい不細工が親しみやすいのは分かる。
でも作品ってのは、完璧を目指し続け、
結果的に凸凹が生まれて味が出るんじゃないかなあ。

最初からツァイガルニク効果を狙った、
人の心に傷を記憶させるような作品は、
汚ねえやり口だと思う。


皆さんは、ちゃんと齟齬のない完璧な作品を目指してください。
その勢いの中の乱れが、結果的に美しくなると思います。
posted by おおおかとしひこ at 10:03| Comment(6) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>>僕はいまだに「ニューシネマパラダイス」の、
姫の前で待ち続けた男の挿話の意味がわからなくて、
ずっと心に引っ掛かっている。

私は完全版の後半にある、エレナがアルフレードに説得されてトトから身を引いた部分が、兵士が王女から身を引いた部分に対応していると考えています。

映画の前半では
・トト=兵士(相手のことを想って窓の下で待ち続ける)
・エレナ=王女
の立場でしたが、

映画の後半では
・エレナ=兵士(相手のことを想って身を引く)
・トト=王女
の立場になっているように思います。

兵士と王女のエピソードは、映画の前半ではトトとエレナを出会わせるためにあり、後半ではトトとエレナを別れさせるために入れてあるのだと思います。
Posted by 見習い脚本家 at 2016年07月14日 11:50
見習い脚本家様コメントありがとうございます。

「身を引くこと」がこの映画のテーマではないと思うので、
その構造は、物語に効果的とは思えないです。
(普及版と完全版ではテーマが異なりますが、そのどちらにとっても)

そもそも「何故兵士はいよいよ姫が手に入るという前の晩に姿を消したのか」
が分からないことが、この挿話にツァイガルニク効果を付与してると僕は思います。

びびったから、身分違いなのでその人を不幸にするから、
などなどの推測は可能ですが決定打がない。
ということは、これは「不完全な挿話」だということ。

不完全な挿話を埋め込み、ツァイガルニク効果を狙ったのか、
ただ単に未熟ゆえにこうなったのか判断しがたいですが、
おそらく「結果的に後者」でしょう。
ただ、意図的に前者を狙うやつが最近増えてきてねえ。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年07月14日 14:53
エレナも兵士も、愛ゆえに相手のことを考えて身を引いたのだと思います。

私が観たのは完全オリジナル版で、テーマは「今の自分があるのは、いろいろな愛のおかげである」だと考えています。

ニューシネマパラダイスではいろいろな愛を積み重ねながら話が進んでいきます。

〜少年期〜
・シチリアの人たちの映画への愛
・トトの映写室やアルフレードへの愛
・アルフレードのトトへの愛

〜青年期〜
・トトの映画への愛
・トトのエレナへの愛
・エレナのトトへの愛
・アルフレードのトトへの愛

〜中年期〜
・故郷の人たちのトトへの愛
・母親のトトへの愛
・エレナのトトへの愛、アルフレードのトトへの愛(真相の暴露)

それらの愛を、ラストシーンで中年トトはキスシーンに重ねてみている気がします(キスシーンは愛の象徴)。


「何故兵士はいよいよ姫が手に入るという前の晩に姿を消したのか」の答えは、「エレナはなぜニューシネマ座に現れなかったのか?」「エレナはなぜ自分からトトに連絡を取らなかったのか?」の答えに対応していると思います。

相手のことを考えて愛しているがゆえにそうしたのです。
アルフレードとトト、エレナとトトの関係で答えを描いているので、兵士と王女のほうは描かなかったのではないでしょうか。
Posted by 見習い脚本家 at 2016年07月15日 01:17
おっしゃる通り決定打がないので推測です。長文失礼いたしました。
Posted by 見習い脚本家 at 2016年07月15日 01:19
見習い脚本家様コメントありがとうございます。

その説明の構造はわかった上で言っております。
「で、その構造が全てをまとめるほどのことか?」と。

完全版のテーマは一言で言い難く、
見習い脚本家さんの書いたものでもうまく言い表せていない気がします。
「私は色々愛されていたのだ」というのは、
ちょっとメアリースーに過ぎるなあと思いまして。

僕は、「人生には色々な分岐点がある。
それは決して帰ることは出来ないし、
どちらを選んだことでどうなったかは、誰にも分からない。
ただ、その時の輝きだけは真実だ」
みたいなことかな、と考えています。

そうすると、あの挿話だけ浮いてしまう。
優秀な編集者が、これを入れておくと不完全になる、
という計算でわざと残したもの、
と僕は解釈しています。

実のところ、エンリオモリコーネの音楽が素晴らしすぎて、
考えることさえ麻痺させるんですけどね。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年07月15日 11:39
一意に定めずに終わるほうが妄想がはかどるのかもしれないですね。

私の論理的でない思考・文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。
もう少しうまく自分の頭の中のことを表現できたらと思うのですが、なかなかうまくいきません。精進したいと思います。

Posted by 見習い脚本家 at 2016年07月18日 19:15
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