2016年07月15日

人間らしさとは何か

以前聞いた話で面白かったのは、
「人間らしさの定義は、時代によって変化している」
というものだ。


中世では、
人間らしさとは理性のことだった。
神に近づく理性こそが、
野蛮な獣であるものから、
人間を区別する、
人間らしさだったという。

それが、産業革命を経て機械文明になると、
感情があることが人間らしさになった。
マシンは冷たく淡々とものごとをこなすから、
豊かな感情こそが人間らしさだと。
やさしさとかあったかさとかだ。
怒りや愛もそうだろう。
ロボットが出てくるSFは、大抵これをネタにする。

つまり、人間らしさという概念は、
その時々の、
人間の外にあるものの反対概念で定義されている。



音楽の世界では、
ドラムは今打ち込みが多い。
リズムは機械でやるから、毎回、正確に同じリズムをとる。
「今回の録音は生楽器生演奏」となると、
微妙に揺れたりずれたりして、
「やっぱ人間の演奏は、時々揺れがあって、
味があるなあ」なんて言ったりする。

絵でも、写真のように正確に描くことはもうどうでもよくて、
どれだけ自分の味を出せるか勝負のところがある。
CADで書いた絵なんて、面白味がないよね。
CGがいまいち心に来ないのもこれじゃないかなあ。

デジタルで正確に制御できるようになった時代では、
「時々間違い、ずれて、グルーヴをつくる」ことが、
人間らしさだと言われているわけだ。


次は?

僕は、
「継続して、線で考えること」が人間らしさになるのではないかと感じている。

ネットで繋がれた私たちは、ツイッターバカ発見器のように、
案外人間は理性のない動物並みである、
と知ってしまったような気がする。
理性のある市民が市民生活をしているのではなく、
動物が人間の外見をしているだけなのだと。

ネットの繋がりは点だ。動物の感情が吠えているだけだ。
バズリは三日もあれば流されて収束する。
一度訪れたら消費で、再訪して理性ある議論を続けることはないだろう。
(感情による粘着は存在する)


人工知能も同じくである。
ディープラーニングは、実は入力に対して出力を返しているだけで、
線の意識を持っていない。
将棋も囲碁も、先読みしてるのではなく、
「こんな感じの盤面では、こんな感じの手を打つと得点が高い」
という点の判断をしてるだけである。
(線で考えるエキスパートシステムも併用してるかもだが。
エキスパートシステムは、if-thenの集合体で、
人間によって分類された、線の思考のシミュレータだ。
だけど学習が出来ない欠点がある。
システムを組んだ瞬間完成だからだ。
無限学習するディープラーニングに勝てない)

今時の人工知能は、
線、たとえば伏線と回収などを扱えないわけだ。


星新一賞を通過した二本を読んだが、
線による知性がなく、その場の思いつきを並べて、
なんとなく接続してあるだけだった。
接続は人の作ったアルゴリズムでやっているらしい。
つまりそこは自動ではなく姿意が入っている。

ショートショートだから誤魔化しが効くが、
あの倍の分量になると途端に厳しくなるだろう。
勢いで誤魔化せなくなる。
つまり、長いほど支離滅裂になるということ。


人間らしさの対義語は、
支離滅裂、つまり点の思考。
その場で発情する動物のような。

人間らしいということは、
継続して線で考えること。
継続した首尾一貫した展開や流れ。

そういう気がしている。


ということで、妖怪支離滅裂の話が書けるといいなあ、
と思った次第だ。
あと、妖怪不寛容も。
(ベッキーの袋叩き、移民問題。世界中が不寛容に傾いている)


人間らしさってなんだろう。
人間の何が素晴らしいのだろう。
それを描くのが、作家の仕事だと思う。
大きく出すぎだけど。
posted by おおおかとしひこ at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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