以前聞いた話で面白かったのは、
「人間らしさの定義は、時代によって変化している」
というものだ。
中世では、
人間らしさとは理性のことだった。
神に近づく理性こそが、
野蛮な獣であるものから、
人間を区別する、
人間らしさだったという。
それが、産業革命を経て機械文明になると、
感情があることが人間らしさになった。
マシンは冷たく淡々とものごとをこなすから、
豊かな感情こそが人間らしさだと。
やさしさとかあったかさとかだ。
怒りや愛もそうだろう。
ロボットが出てくるSFは、大抵これをネタにする。
つまり、人間らしさという概念は、
その時々の、
人間の外にあるものの反対概念で定義されている。
音楽の世界では、
ドラムは今打ち込みが多い。
リズムは機械でやるから、毎回、正確に同じリズムをとる。
「今回の録音は生楽器生演奏」となると、
微妙に揺れたりずれたりして、
「やっぱ人間の演奏は、時々揺れがあって、
味があるなあ」なんて言ったりする。
絵でも、写真のように正確に描くことはもうどうでもよくて、
どれだけ自分の味を出せるか勝負のところがある。
CADで書いた絵なんて、面白味がないよね。
CGがいまいち心に来ないのもこれじゃないかなあ。
デジタルで正確に制御できるようになった時代では、
「時々間違い、ずれて、グルーヴをつくる」ことが、
人間らしさだと言われているわけだ。
次は?
僕は、
「継続して、線で考えること」が人間らしさになるのではないかと感じている。
ネットで繋がれた私たちは、ツイッターバカ発見器のように、
案外人間は理性のない動物並みである、
と知ってしまったような気がする。
理性のある市民が市民生活をしているのではなく、
動物が人間の外見をしているだけなのだと。
ネットの繋がりは点だ。動物の感情が吠えているだけだ。
バズリは三日もあれば流されて収束する。
一度訪れたら消費で、再訪して理性ある議論を続けることはないだろう。
(感情による粘着は存在する)
人工知能も同じくである。
ディープラーニングは、実は入力に対して出力を返しているだけで、
線の意識を持っていない。
将棋も囲碁も、先読みしてるのではなく、
「こんな感じの盤面では、こんな感じの手を打つと得点が高い」
という点の判断をしてるだけである。
(線で考えるエキスパートシステムも併用してるかもだが。
エキスパートシステムは、if-thenの集合体で、
人間によって分類された、線の思考のシミュレータだ。
だけど学習が出来ない欠点がある。
システムを組んだ瞬間完成だからだ。
無限学習するディープラーニングに勝てない)
今時の人工知能は、
線、たとえば伏線と回収などを扱えないわけだ。
星新一賞を通過した二本を読んだが、
線による知性がなく、その場の思いつきを並べて、
なんとなく接続してあるだけだった。
接続は人の作ったアルゴリズムでやっているらしい。
つまりそこは自動ではなく姿意が入っている。
ショートショートだから誤魔化しが効くが、
あの倍の分量になると途端に厳しくなるだろう。
勢いで誤魔化せなくなる。
つまり、長いほど支離滅裂になるということ。
人間らしさの対義語は、
支離滅裂、つまり点の思考。
その場で発情する動物のような。
人間らしいということは、
継続して線で考えること。
継続した首尾一貫した展開や流れ。
そういう気がしている。
ということで、妖怪支離滅裂の話が書けるといいなあ、
と思った次第だ。
あと、妖怪不寛容も。
(ベッキーの袋叩き、移民問題。世界中が不寛容に傾いている)
人間らしさってなんだろう。
人間の何が素晴らしいのだろう。
それを描くのが、作家の仕事だと思う。
大きく出すぎだけど。
2016年07月15日
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