2016年07月17日

デジタルは人を幸せにしない: 動画文化の多動症

YouTubeなどの動画文化が盛んだけど、
みんな何を見てるのだろう。
バラエティー的なものか。
音楽的なものか(実はこれが多いのが音楽業界衰退の原因かも。
最近の人たちはYouTubeで一番音楽を聞いてるのでは?
たとえば人が集まる場で、YouTubeでリンクされてる音楽リストを流したり)。

スボーツ的なものやライブ的なものは、
ライブ性が重要だからあまり見られないかも。
過去のアーカイブなら見られるかも。

ストーリー的なものは、そのなかでの地位は低いような気がしている。


ドラマや映画は、
動画の「ちょっと見ればいいもの」に対して、
もはや「ちゃんと見なきゃいけないもの」になっていると思う。

手軽さの敷居が高いというか。

昔はドラマなんて、その辺に転がっている、
誰もが見る身近なものであったはずだ。

それがいつの間にか、
正座して、伏線とか確認しながら、
鑑賞して批評しなきゃいけないものになりつつあるのではないか。

(その批評は、出演者の批評、誰がかわいいかぐらいしか、
なかったりするんだけどさ)

YouTubeをはじめとした動画文化は、
単発的で面白いものを見たり、
過去のアーカイブを見る分にはいいけれど、
「未知の線」に飛びつかせることは、
実は一番難しいのではないかと感じる。

一定以上時間の、集中を必要とするからである。


動画文化のせいで、集中力が下がったわけでは、まさかないだろう。
日本人全体が、集中力が下がっているような気はする。
ネットのせいで多動症になり、
嫌なものからはすぐ逃げて、
ひとつに腰をすえることが困難になっているような気がする。

たとえば若手後輩に教える場を設けているが、
そこではケータイを切るのが基本だ。
余計なものが来て、集中を乱されることを断るためだ。
逆にいうと、ケータイのせいで、
現代人は、集中を常に乱されている。

ドラマや映画を見るときは、ケータイを切るのが基本だ。

そんなことは、つまり現代人には稀な経験だということかな。



人の話を最後まで聞かなくなったかどうかは知らない。
ネットの炎上はほとんどは一部だけに反応したもののような気がする。
不寛容という現代の問題のひとつは、
ただ一点が気にくわなくて、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、
に拡大してしまうような感じだ。
気にくわないが連鎖していき、
その人の言うことを最後まで聞く集中力なんて、
もはや失われたのではないかなあ。



卵が先か鶏が先かだけど、
そういうことで、
「一定時間集中力を使って線を楽しむ」ことが、
「今パッと面白ければあとはどうでもいい」と、
「過去の凄いのは安心して見れる」に、
押し流されているのではないかなあ。


デジタルは本当に人を幸せにしてるのかなあ。
便利な道具ゆえに、
理性のレベルを結果的に下げて(頭を使わなくてよくなるから)、
人間の動物化を進めてるだけなんじゃないのかあ。

これから人工知能が進むと、
考えることさえ止めるんじゃないかね。
ディープラーニングは考えているわけではない
(判断の根拠を示せず、
その推論に至った経緯を言語で説明出来ない。
「なんでこんなことしたの」に答えられない。
どう電流が流れどの回路が発火したかのログは取れてもだ。
判断が正しくともその根拠を示せないのなら、
それは占いと変わりなくなる。
言葉を介して知性を議論できないのである)のに、
凄いからといって、
考えることさえ放棄するんじゃないかな。
posted by おおおかとしひこ at 09:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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