映画やドラマ、CMやPVの企画は、
どうやって生まれるのか整理してみる。
1. 脚本家や監督が思いつき、自ら脚本を書く。
2. プロデューサーが思いつき、脚本家に書いてもらう。
3. 売り出したい何かの為に、企画を募る。
4. 確固たるアーティストに、世界観ごと依頼する。
1、2は映画やドラマが多い。
3はもともとCMのやり方。
4はPVに多い。ビジュアルやギミック重視になる。
(ミシェルゴンドリーや蜷川実花を連れてくる、といえば分かりやすいかな)
映画は、どれが一般的?
僕は1であるべきだと思うし、ハリウッドも1らしいが、
日本では、2が一般的のようだ。
大きく言うと、プロデューサーが、
こういうの思いついた!とアイデアを出して、
脚本家に完成させるのが、一般的だ。
「こういうの思いついた!」はピンキリで、
温泉で殺人が起こる、などのシチュエーションと事件レベル、
雪山ものをやろう、というシチュエーションレベル、
キムタクにコメディをやらせよう、というキャラクターレベルから、
こういうテーマがやりたい、という意思だけあるレベル、
きちんとプロットのあるレベル、
さらに時代を切り開くテーマまで揃っているレベルまである。
まあ、きちんと揃っているレベルなんて、
殆どないことが予測される。
何故なら当のプロデューサーは、脚本を書かないからである。
ちょっとおかしいことに、そろそろ気づくだろう。
書かない人がなんとなくのアイデアを出して、
脚本家は下請けのようにそれを書くだけ?
どこに創造性があるの?と。
創造性は、
斬新なアイデアを、いかに着地したかで決まると思う。
アイデアと具体的着地のふたつがいる。
プロデューサーはアイデアだけ出して、
その着地の責任を取らないのが一般的だ。
僕は現在のこの仕組みがヘンテコだと批判しようとしている。
さて、書く人間がアイデアを出し、
着地させた完成稿を持ち込む1のほうが、
オリジナリティある面白い脚本になりそうだ。
マンガや小説は、殆どがこの形式で書かれていることが想像される。
(最近は編集者がプロデューサーがわりに指導するとも聞くが)
ところが、プロデューサーの必殺があって、
こういうのを持ち込むと、「売れない」というのである。
売れる、売れないが、
「今の時代に切り込むべき意欲的企画である」かどうかではなく、
「製作委員会を集めることが難しい」であることが、
今の時代の癌だと僕は思っている。
たとえば、
「夏は暑いから、冬山ものは涼しげなんじゃないか」
と「冬山もの」を企画する。
→ストーリーや設定はよく知らないから、
原作を探してくる
→うまいこと、「夏にヒットする冬山もの」に原作をアレンジしてくれるように、
脚本家に依頼
→一方で主演を抑える、ホンができる前に探りを入れていく
→こういう主演のイメージで、こういう感じの冬山ものをやりたいので、
資金提供者を探す
→資金提供者は、主演と原作と、「夏に冬山ものは涼しそう」
という三点だけ見て、出資の意向を固める
→あとはホン次第
→主演俳優、資金提供者が納得するホンを、
あとは脚本家が書くだけ
みたいなスケジュールで動くわけだ。
だから、面白くないホンしか生まれないんだよ。
本来脚本というのは、
事件と解決を決めて、テーマをつくり、
その構造に工夫を凝らし、
執筆で工夫し、その上にガワを被せて出来上がる。
それを、「夏に見る冬山ものでなんかひとつ書いて」
なんて無茶ぶりをされ、
「すでにそういう方向でビジネスが動いてるから、
それに合わせて書いてよ」になるのである。
さて、まだ「夏に冬山」は企画がまだあるほうだ。
ビジネスの理屈に、ギリギリなるからである。
ところが、
これが「原作押さえました(契約した)」が企画になるのが、
今の実写化ばかりやっている、
邦画のメインストリームである。
企画性も何もない。
それどころか、売り出したいタレントを混ぜこんで、
CMのような3を要求し、
ついでに、目立つスキルのあるアーティストを他所から呼んでくる、
4も増えている。
その人は別の作品で成功していて、
それと同じテイストを頼まれるわけだ。
(その人からしたら、別の世界を次にやりたいと思っていても、
同じものを要求されるわけだ。
普通クリエーターなら、それは退屈だろう)
こうやってるから、
いつまでたっても、1からコツコツ作っても意味がないのである。
ハリウッドはどうだろうか。
脚本家組合では、
オリジナルで書いた脚本を登録される。
リーダー(読み専)が、それらを読み続け、
良いものをピックアップし、
プロデューサーに届ける。
(昔は図書館のように書架に入っていた様が、
「サンセット大通り」なんかを見ると出てくる。
今は会員制サイトにアップされるらしい。
日本もこうするべきだとずっと思っている)
プロデューサーは、読むことなしに、
ログラインだけを見て、
ビジネスプランを考える。
仮に同じく「夏に冬山」を思いついたとしよう。
主演を抑えられるか確認し、
資金提供者を確保するのは同じだ。
独特の世界のアーティストを呼ぶかも知れない。
で、脚本家に電話する。
「君の話を冬山ものにリライトしたいのだが、
君がやるかね?それともお金を貰ってここで降りて、
別の人間にリライトさせるかね?」と。
リライトでぐちゃぐちゃにされるのは目に見えていても、
なおやるか金で買われて脚本を手放し、別のホンを書くかは、
脚本家が決めてよいのである。
(ちなみにこの時点で、
日本だと100万円貰えないことが多い。
ハリウッドの最高落札額は「氷の微笑」の300万ドル。
100万ドルまで落ちたとしても、ざっと100倍開きがある)
脚本家の仕事の本質は?
ハリウッドでは、オリジナルのアイデアを出し、
オリジナルのテーマを描くことだ。
後半は、要求に応じて改変する能力が要求されるが、
これはお金を貰って降りることが可能だ。
(途中降板して、あいつは降りるから二度と頼まない、
となるのかは、ニュアンス的には分からない)
日本では、殆どが後者の能力しか、現状要求されていない。
(途中降板はノーギャラで、かつ二度と頼まない)
だから日本の脚本は、レベルが低いのである。
どんなに才能があったって、改変する才能しか要求されない。
これはクリエーターの才能ではなく、
バランサーの才能でしかない。
だから、今脚本家を目指す人は、
漫画原作者やゲーム脚本家、小説家になってしまう可能性が高い。
その方が夢が現実的だからだ。
(もっとも、それらはラノベ飽和みたいになっている、
別の問題があるけど)
日本映画は、早急に、
オリジナル脚本を募るべきだと思う。
売れる/売れないの判断を、
主演や原作や、「夏に冬山」レベルのビジネス勘に頼るべきではないと思う。
時代を切り開く作品かどうかを判断し、
それをどうやったら商売に結びつけられるかを判断するべきだ。
なんなら、オリジナル脚本の賞を創設して、
受賞で権威づければいい。
僕がそういうことを主宰したいぐらい。
1をみんなやろう。
それで売れるのがベストだ。
それを信じて才能を磨き、
何でも出来るようになったら、2で稼ぐかもだけど。
実は今1で動いていて、
上手く行くんじゃないかというのが一本ある。
成功したらドヤ顔で解説してやるぜ。
(てんぐ探偵も本来それだったんだけど、
脚本では一般の人が読みにくいと判断して、
小説化に踏み切った事情がある)
なかなかうまいこと行かなくても、
コツコツと卵を産み出すことだ。
あの手塚治虫でさえ、没企画はノート何十冊もあったらしい。
2016年07月19日
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