絶望したい人は悲劇、
希望を持ちたい人は喜劇、
と昔から決まっている。
日本はどうなるのだろう。
なんだか黒い雲がずっといる。
超高齢化、東京オリンピックの老害茶番ぶり、
それが終わったあと何も残らない不安、
移民を解禁するのかどうか。
ちょっと考えただけで、日本ヤバイ。
80年代のイケイケの時代に中高生だった僕は、
まさか日本がこうなるとは思ってもなかった。
僕は世界に希望を持ちたい。
だから基本的には喜劇を書く。
喜劇はハッピーエンドであり、
人間は信じられ、社会も自浄作用があるというスタンスである。
ところが、どうも今日本は悲劇の側に傾いている気がする。
絶望的な世界でただ生き抜く感じで、
社会がハッピーになることはなく、
個人的幸福のレベルしか興味がなく、
他人はほとんどが信じられないし、
社会はどうなってもいいというスタンス。
喜劇のベースになっているのは喜びであり、
悲劇のベースになっているのは哀しみである。
ユーモア&ペーソスという、ふたつの調味料があるとしたら、
前者が喜劇で後者が悲劇だ。
もちろんふたつの調味料は混ぜて使うのだが、
ユーモアの上にペーソスを振りかけるのか、
ペーソスの上にユーモアを振りかけるのか、
という、ベースの話を今している。
失われた10年、東日本震災後の日本で育った若者に、
80年代のような、明るい希望を持てと言っても、
ひょっとすると無理かも知れない。
社会が喜劇に満ちていないからである。
喜劇はこの場合お笑い番組ではない。
社会全体が希望や活気や優しさや協力に溢れているかだ。
今お笑い番組は、お笑い番組の中だけしか喜劇でしかない。
それが終わると、悲劇の世界が戻ってくる気がする。
つまり、
社会全体が重苦しく、生きづらく、不穏で、誰も信じられない感じ。
どうしてこうなったかについては、
他の頭のいい人に任せる。
物語的には、
こういうときは悲劇が流行る、ということなだけだ。
悲劇といっても、
男女が悲恋をして最後は来世で結ばれようなんてメロドラマのことではない。
バッドエンド上等の、絶望的なことが横たわるものであればなんでもだ。
つまり、ダークファンタジーは、
ファンタジー世界を舞台にした悲劇である。
ファンタジー世界だから、世界への見方が露骨に世界観となる。
ディズニー的な伝統的なファンタジー世界が、
世界が希望に溢れているとする喜劇的世界観だとするならば、
2000年代以降のダークファンタジーは、
世界は基本絶望である、悲劇的世界観を表している。
世界全体が不穏だ。
EUは破綻の香りがする。
資本主義は、マルクス的革命前夜にまで、貧富の差がすすんだ。
自由主義は移民を生み、移民は資本主義的原則で実質奴隷である。
ネットで繋がったけどそれが全体を幸福には、勿論していない。
むしろ世界の加速をはやめただけだろう。
同時に停滞(行き止まり、収束)に至る速度もはやめたと思う。
そんな中、
あなたは悲劇的世界観をベースにするのか、
喜劇的世界観をベースにするのか、
選ばなくてはならない。
人々はどちらを見たいのか?
人々はどちらを信じたいのか?
私はどちらにリアリティーを感じるのか?
私は世界をどうしたいのか?
これらのシンクロニシティが、作品という交差点になる。
僕は、希望の方を、絶望よりも書きたいだけである。
なくなってしまえ、と言うより、
ええやん、と言いたいだけである。
難しいけどね。
いつか、世界は80年代のようになるだろうか。
搾取によらない理想郷は生まれるだろうか。
人類の成員である我々次第である。
私たちカナリアは、少し先の未来を、物語を通じて予言するのみである。
あなたはどっち?
作家になるなら、決めておかないといけない。
(作品によって変えてもいい)
2016年07月21日
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聖書だって失楽園から始まる
人は絶望しているから希望を求める
世界が希望でできているなら物語なんて必要ない
>物語は絶望から生まれるんですよ
生まれる話じゃなくて、結論の話をしています。
結論から逆算するなら、
喜劇(ハッピーエンド)とは絶望からはじまって希望に至る話、
悲劇(バッドエンド)とは希望からはじまって絶望に至る話、
とでも大きく言えるでしょうね。
その間に何度も振り巾があるでしょうが。
ぼくは、世界は希望で出来ていると考えています。
性善説と性悪説みたいに、決着はつかない話ですが。