2016年07月22日

主人公の作り方、ライバルの作り方、その他の人物の作り方

キャラクターメイキングの話。

キャラクターを作るときに、
外見や性格や、アイテムや、過去から作るのは、初心者のやり方だ。
それはキャラを立たせるのには役に立つが、
ストーリーの創作にはむしろブレーキをかけてしまう。

じゃあ何から作るのか。
目的からだ。


目的を作るには、陥っているシチュエーションこみでないと出来ない。

酷い環境から脱出したい、
退屈しているから面白くしたい、
などが抽象的にはポピュラーだろう。
これをストーリーに応じて具体的にしてゆく。

キャラクターを作ろう、と思うと、
ついつい外見や性格から作ってしまう。
(「人物設定」という言葉を聞いても、陥ったシチュエーションよりも、
家族や人間関係の設定が先行するイメージがあるしね)
それは、作者が「どういう人物かイメージしたい」という欲望が先立ってしまうからだ。
逆に言うと、「イメージできないと書けない恐れがある」ということである。

ところが。

人間というのは、
外見とすることには、そもそもギャップがあるものであり、
「その人物のキャラにないことをする瞬間」こそ、
物語の跳ねる瞬間である。

キャラクターがキャラにあることをするのは、
ただの予定調和であり予測の範囲であり、お約束であり、定番でしかない。

たとえば熱血キャラが修行する、
などの王道と呼ばれる人気のものもあるけれど、
それはストーリーによって、王道/変化球をあとで配球すればいいだけのことだ。

つまり、ストーリーが先で、キャラクターがあとだ、
ということを僕はこれから言おうとしている。



主人公だから主人公っぽいキャラにしよう、とか、
逆に主人公っぽくない外しキャラにしよう、とか、
ライバルだからこういうキャラ、とか、
その他の人物っぽいキャラ、とかは、
先に決めてもストーリーが書けるわけではない。

そのキャラが、
生き生きと動いたり喋ったりするのはイメージ出来るから、
ついキャラに魂が宿ったような気になってしまう。
しかし、キャラが書けても、ストーリーが書けたわけではない。

何故なら、ストーリーとは、
外見や性格ではなく、
「目的の実行と、それに対する抵抗への対処」のことだからである。

キャラ先行だと、
そのキャラっぽい目的や実行しか思いつかず、
その場面は面白くなるが、
場面を重ねれば重ねるほど失速する。
それは、そのキャラクターが「どこを見て最終的に動いているか」がないからだ。

ストーリーとは、
その人物が何をするかで動き、別の人物が答え、何かをすることで動く。
キャラクター先行だと、その場の思いつきの動きになり、
長期的な流れをつくることは難しくなってゆく。
これは、アドリブをやってみるとよく分かる。
一場面、数場面は出来ても、徐々にそのパワーが失われる経験が積める。



「キムタクを主演にした、全く新しいドラマを作ってくれ」
という依頼よりも、
「全く新しいドラマを作ってくれ。出来た?
ところでこの主演、キムタクがいいんじゃない?
普段のキムタクっぽくなくて、面白いことになりそうだね」
という依頼の方が、
「予想の範囲内にある、またか、というやつでないもの」
を作れそうだ。
(前者の頼み方のせいで、昨今のドラマや映画がダメになりつつあるわけだ)

ということで、
キャラクターはあとで作る。

目的、シチュエーション、行動からつくる。
それはどんなテーマを暗示するかを考える。
その逆のテーマを考えると、ライバルの目的、シチュエーション、行動をつくれるわけだ。

その他の人物はどうだろう。
誰かをサポートする役割ならそのような目的を持ち、
そのようなサブテーマを持つだろう。
誰かを阻む役割なら、以下同。

つまり、目的、シチュエーション、行動は、
アットランダムに配列するのではない。
テーマにそって、適切な配置をするべきだ。



相変わらずドラマ風魔を例にとるが、
主人公小次郎は、
忍びのあり方に疑問を持っていて、
そうではない生き方はないかと(無意識に)思っている。
それが「初の実戦」である「姫子を助けること」に出会い、
それが目的となるわけだ。
姫子に惚れることで、目的への動機が過剰になるようになっている。

彼を制御するのは竜魔の役割である。
伝統的忍びのあり方の体現者であり、
彼の目的は任務の勝利である。

だから、自分達のあり方をめぐって、
小次郎と竜魔は度々衝突するわけだ(コンフリクト)。

小次郎のテーマ「忍びと人間の両方の生き方をする」
ことに対して、竜魔は「伝統的忍びの生き方」をテーマとしているわけである。
つまり、小次郎に対して竜魔は敵である。
父親がわりに竜魔が立ちはだかるわけだ。

さて、これらに都合のいいように、
また、ベタを避けるように、
キャラクターはあとで作られている。
小次郎はお調子者であるから、暴走しやすい。
しかも「主人公キャラ」としては未熟者だ。
(だからこそ成長物語になるんだけど)
これは原作に合わせた無理のないストーリーラインになっていると思う。

一方、竜魔のキャラクターは、実は原作と大きく異なっている。
小次郎のテーマの真逆でなければならないからである。
伝統的忍びのような、
原作でいえば総帥のような性格でなければならない。
(それをセリフ一発「竜魔のあんちゃん」で作っている)

原作竜魔は、どちらかといえばクールで、
あまりキャラクター性がない。
それを、
「なんでもかんでも禁止する」
「実は見守っている」
「弟たちを死なせたくないので一人頑張る」
「長兄としての責任感で行動している」
「実は天然マヌケキャラ」(これは二次創作でよく見られるキャラづけ)
などの性格づけをしてある。

それは、その方が、小次郎と竜魔のコンフリクト(すなわちサブストーリー)が面白くなるからだ。

責任感が強いから対立が強まるのではない。
対立するために、責任感を強くしたのだ。


ストーリーが先にあり、
それをより面白くするように、キャラクターを作っていくのである。
(死鏡剣で死にそうになる、という設定も、
責任感を強める為のキャラづけだ)

それもなにも、「小次郎が伝統的考え方と、現代の考え方を融合する」
というストーリーの結論ありきなのである。


僕らは勝手に原作のキャラクターを改変したのではなく、
ストーリーをつくり、それに合わせるように改変したのである。


キャラクターメイキングを先にすると、
このような逆算は絶対に出来ないだろう。
そのキャラが生き生きと動くまでは行くが、
そのキャラの範囲外の事件は、いつまでたっても思いつきにくい。
そして、物語とは、
そのキャラの守備範囲外に出会うことだ。

キャラクターの外に出ないと、ストーリーは作れない。
つまりキャラクター先行だと、近視眼になるのである。



長編連載などはキャラクター先行が多い。
キャラの魅力で引っ張るからである。
これは、
ストーリーの全貌が見えていない見切り発車もあるだろうし、
ストーリーの立ち上がりに時間がかかるからキャラで引っ張る戦略もあるし、
受け方によって形を変えるための備えでもあるだろう。

だけど映画は、それ一本で完成だ。
キャラクター先行でふらふらする話は、
間違いなく無駄が多く、完成までに寄り道をいきすぎるだろう。


目的、シチュエーション、行動、テーマ。
当たり前だけど、それを作るのが一番難しい。
posted by おおおかとしひこ at 14:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック