ものすごくざっくりいうと、
「世界は信頼するに足る」という結末にいたること。
「世界」をどの範囲でとらえるか、
「信頼できない」をどんなことにするか、
「信頼するに足る」をどんなことにし、
それらをどういう話で語るか、
については、それぞれの話次第だ。
というか、それが話の創作のポイントだ。
ものすごくざっくりいうと、
主人公は世界が信頼できないと感じていて、
何かがあり、
最終的に世界を信頼するに足ると思うと、
そういう話が出来ると思う。
主人公は、傷ついたり、絶望したり、悔しかったり、
思いのままにならなかったり、主張を曲げられたり、
世界なんか消えてしまえ、世界から消えたいと思う。
それが、どうにかして、
世界は生きるに値するとか、
まだまだ人間や社会は捨てたものではないとか、
世界は最高とか、
全能感溢れる幸福へいたるとか、
そのような結論に至らなければならない。
その間の紆余曲折や、あちこちにぶつかることや、
頭の具体や尻の具体や、その落差やリアリティーは、
その作品次第である。
注意したいことは、
「私は傷ついていたのだが、
親切な友達が励ましてくれて元気になった、
世界は悪くない」は、
三人称形である、映画形式にはならないことである。
これはこれまでも散々批判してきた、
一人称の日記形、メアリースーの「窓辺系」だ。
一人称から見れば、わたしは希望に囲まれていたのだ、
となって幸福なのだが、
三人称で見ると、
「何もしない人が何もしないのに、親切されてうふふと笑っておしまい」
な話になる。
それは「サービスを受ける客」以外の何者でもなく、
それを二時間見るのは苦痛である。
(1分以内程度には、よくある話だ。
代表的なのはCMだ。有料サービスを受けて笑う顔ばかりである)
三人称形というのは、一種独特だ。
最も動く人が主人公だ。
動くというのは物理的にだ。
しかも内面も動く。
内面の動きを、外面(言動)で表現するのが、
三人称形のお芝居というものだ。
さて、ただ動くダンスをしてもしょうがないので、
映画脚本では、とある事件が起こり、それが解決するまでの間の、
主人公の言動を見て感動するわけである。
「世界は信頼するに足る」と思うのは、
主人公であるとは限らない。
観客がそう思えばなんでもいいのである。
主人公が感動しなくてもいい。観客が感動すればいいのである。
ただ多くの場合は、感情移入があるので、
主人公がそう心底思うのと、観客がそう思うのは、
同時であることが望ましいが。
さて、チラ裏日記レベルのものでない、
三人称形のそのようなものには定型がある。
それを知って使ってもいいし、新しいパターンを作ってもいい。
ちなみにこうだ。
1. 主人公には望みや主張Aがある。
2. しかしそれは実現していない。傷ついたりする。
3. ある日Aを叶えるチャンス。
4. それはある問題の解決に関わること。
5. 色々なことがある。
6. この過程で、Aは窯変し、更にスケールの大きなBへと変わって行く。
7. 解決した。それはBの実現だ。
色々な名作は大体はこれをベースに作られている。
個人的ルサンチマンAの実現だけでなく、
より広く深い結論Bに至ることで、
物語はかけ上がる構造になっている。
Aが実現しない→実現した!という話だと、
俺は悪くない、社会が悪いだけだった、
という浅い話になりがちだ。
ところが、主人公が冒険の過程で、
Aよりも更に深い価値Bにたどり着くことで、
主人公の反省や成長を描くことが可能になるわけだ。
Aは大抵個人的な願望や欲望、
Bはそれも踏まえたより社会に還元できる価値、
であったりする。
ディズニー映画はこの古典的な定型を、毎回手を変え品を変え作ってくる。
特に近年の中で素晴らしい出来の脚本、
傑作ズートピアを見てみよう。
1. 主人公ジュディは、A「全ての動物は平等だ」と思っている。
2. しかし悪いキツネに傷つけられる。
3. 警察官になり、悪者退治をすることでAを実現したい。
4. 連続誘拐事件の解決。
5. 色々なことがある。
(ミッドポイント付近のオリジナリティが、
この映画のオリジナリティを決定的にしている。
それはキツネを偏見で差別してしまったことだ。
事を大きくするために英雄的記者会見でやったのは上手い)
6. Aは、B「偏見の除去」というより社会にとって価値のあることになる。
7. 誘拐事件の黒幕を逮捕、キツネは警官になり、
コンビを組み、今日もABの実現のために働く。
勿論、これは動物園の話ではなく、
近年増えている社会問題、人種差別や不寛容の問題の比喩である。
この映画の素晴らしい所は、
「他人の偏見を糾弾し、黙らせればOK」という表面的な解決を選ばず、
「自分のなかにある偏見(それはトラウマと直結している)」
と向き合わせたことだ。
それを乗り越える(認めて、改善する)ことで、
新たな価値Bへ至る。
この辺りのオリジナリティが素晴らしい。
これが浅いコメディなら、
悪を倒して終わりになるところを、
主人公の内面にこそ悪があることに、向き合わせたところがよい。
それを単なるお涙ではなくである。
あまりにも二人のコンビの友情が素晴らしかったので、
彼らがカップルになってほしいという要望が沢山出たらしい。
感情移入がうまくいき、感動があった証拠だ。
思い入れのある人々には、幸せになってほしいからだ。
続編つくるんだろうな。
安易なラブコメにしてほしくないところだけど。
ズートピアの脚本の凄いところは、
こういう難しい言葉を、何一つ使っていないところである。
偏見、人種差別、不寛容、移民、自分の中の悪。
それらを使わずに、ただの上京物語、ただの若者の物語として、
平易な、それこそ子供でも見れる言葉で、
それらを「表現」しているところが、素晴らしいのである。
これを越える出来のものは、あと数年は現れないだろう。
スタジオのマーケティング、
つまり動物キャラを色々作って売り出したい、
という欲望と合致して、かつ、脚本として素晴らしいからだ。
(前者が勝れば豪華なごり押し、後者が勝れば地味で予算なし、
という両極端に振れているのが、昨今の映画界の問題だから)
勿論他の名作でも、この定型は存在する。
ロッキーにも、ドラマ風魔にもだ。
5の、「色々なことがある」がポイントになってくる。
ここで、冒頭からいかに結論に至るかを、
説得力あるような、面白い、ストーリーを作らなきゃならないわけだ。
(ほとんど二幕のことを言っている。
変化に関するイメージ、虹を思い出すとよい)
今までの話は、全てハッピーエンド、
大きく言うと喜劇のジャンルのことである。
バッドエンド、悲劇は、特に研究してないのだが、
全部逆ではないか、という仮説にとどめておく。
感動は、あればあったほどいい。
しかし、安易につくる感動ほど安いものはない。
本物の感動を、ちゃんとつくろう。
2016年07月27日
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