2016年07月27日

感動の構造

ものすごくざっくりいうと、
「世界は信頼するに足る」という結末にいたること。


「世界」をどの範囲でとらえるか、
「信頼できない」をどんなことにするか、
「信頼するに足る」をどんなことにし、
それらをどういう話で語るか、
については、それぞれの話次第だ。
というか、それが話の創作のポイントだ。

ものすごくざっくりいうと、
主人公は世界が信頼できないと感じていて、
何かがあり、
最終的に世界を信頼するに足ると思うと、
そういう話が出来ると思う。

主人公は、傷ついたり、絶望したり、悔しかったり、
思いのままにならなかったり、主張を曲げられたり、
世界なんか消えてしまえ、世界から消えたいと思う。
それが、どうにかして、
世界は生きるに値するとか、
まだまだ人間や社会は捨てたものではないとか、
世界は最高とか、
全能感溢れる幸福へいたるとか、
そのような結論に至らなければならない。

その間の紆余曲折や、あちこちにぶつかることや、
頭の具体や尻の具体や、その落差やリアリティーは、
その作品次第である。


注意したいことは、
「私は傷ついていたのだが、
親切な友達が励ましてくれて元気になった、
世界は悪くない」は、
三人称形である、映画形式にはならないことである。

これはこれまでも散々批判してきた、
一人称の日記形、メアリースーの「窓辺系」だ。
一人称から見れば、わたしは希望に囲まれていたのだ、
となって幸福なのだが、
三人称で見ると、
「何もしない人が何もしないのに、親切されてうふふと笑っておしまい」
な話になる。
それは「サービスを受ける客」以外の何者でもなく、
それを二時間見るのは苦痛である。
(1分以内程度には、よくある話だ。
代表的なのはCMだ。有料サービスを受けて笑う顔ばかりである)

三人称形というのは、一種独特だ。
最も動く人が主人公だ。
動くというのは物理的にだ。
しかも内面も動く。
内面の動きを、外面(言動)で表現するのが、
三人称形のお芝居というものだ。

さて、ただ動くダンスをしてもしょうがないので、
映画脚本では、とある事件が起こり、それが解決するまでの間の、
主人公の言動を見て感動するわけである。

「世界は信頼するに足る」と思うのは、
主人公であるとは限らない。
観客がそう思えばなんでもいいのである。
主人公が感動しなくてもいい。観客が感動すればいいのである。

ただ多くの場合は、感情移入があるので、
主人公がそう心底思うのと、観客がそう思うのは、
同時であることが望ましいが。


さて、チラ裏日記レベルのものでない、
三人称形のそのようなものには定型がある。
それを知って使ってもいいし、新しいパターンを作ってもいい。

ちなみにこうだ。


1. 主人公には望みや主張Aがある。
2. しかしそれは実現していない。傷ついたりする。
3. ある日Aを叶えるチャンス。
4. それはある問題の解決に関わること。
5. 色々なことがある。
6. この過程で、Aは窯変し、更にスケールの大きなBへと変わって行く。
7. 解決した。それはBの実現だ。

色々な名作は大体はこれをベースに作られている。
個人的ルサンチマンAの実現だけでなく、
より広く深い結論Bに至ることで、
物語はかけ上がる構造になっている。

Aが実現しない→実現した!という話だと、
俺は悪くない、社会が悪いだけだった、
という浅い話になりがちだ。
ところが、主人公が冒険の過程で、
Aよりも更に深い価値Bにたどり着くことで、
主人公の反省や成長を描くことが可能になるわけだ。
Aは大抵個人的な願望や欲望、
Bはそれも踏まえたより社会に還元できる価値、
であったりする。


ディズニー映画はこの古典的な定型を、毎回手を変え品を変え作ってくる。
特に近年の中で素晴らしい出来の脚本、
傑作ズートピアを見てみよう。

1. 主人公ジュディは、A「全ての動物は平等だ」と思っている。
2. しかし悪いキツネに傷つけられる。
3. 警察官になり、悪者退治をすることでAを実現したい。
4. 連続誘拐事件の解決。
5. 色々なことがある。
(ミッドポイント付近のオリジナリティが、
この映画のオリジナリティを決定的にしている。
それはキツネを偏見で差別してしまったことだ。
事を大きくするために英雄的記者会見でやったのは上手い)
6. Aは、B「偏見の除去」というより社会にとって価値のあることになる。
7. 誘拐事件の黒幕を逮捕、キツネは警官になり、
コンビを組み、今日もABの実現のために働く。

勿論、これは動物園の話ではなく、
近年増えている社会問題、人種差別や不寛容の問題の比喩である。

この映画の素晴らしい所は、
「他人の偏見を糾弾し、黙らせればOK」という表面的な解決を選ばず、
「自分のなかにある偏見(それはトラウマと直結している)」
と向き合わせたことだ。
それを乗り越える(認めて、改善する)ことで、
新たな価値Bへ至る。
この辺りのオリジナリティが素晴らしい。

これが浅いコメディなら、
悪を倒して終わりになるところを、
主人公の内面にこそ悪があることに、向き合わせたところがよい。
それを単なるお涙ではなくである。

あまりにも二人のコンビの友情が素晴らしかったので、
彼らがカップルになってほしいという要望が沢山出たらしい。
感情移入がうまくいき、感動があった証拠だ。
思い入れのある人々には、幸せになってほしいからだ。
続編つくるんだろうな。
安易なラブコメにしてほしくないところだけど。

ズートピアの脚本の凄いところは、
こういう難しい言葉を、何一つ使っていないところである。
偏見、人種差別、不寛容、移民、自分の中の悪。
それらを使わずに、ただの上京物語、ただの若者の物語として、
平易な、それこそ子供でも見れる言葉で、
それらを「表現」しているところが、素晴らしいのである。

これを越える出来のものは、あと数年は現れないだろう。
スタジオのマーケティング、
つまり動物キャラを色々作って売り出したい、
という欲望と合致して、かつ、脚本として素晴らしいからだ。
(前者が勝れば豪華なごり押し、後者が勝れば地味で予算なし、
という両極端に振れているのが、昨今の映画界の問題だから)


勿論他の名作でも、この定型は存在する。
ロッキーにも、ドラマ風魔にもだ。
5の、「色々なことがある」がポイントになってくる。
ここで、冒頭からいかに結論に至るかを、
説得力あるような、面白い、ストーリーを作らなきゃならないわけだ。
(ほとんど二幕のことを言っている。
変化に関するイメージ、虹を思い出すとよい)




今までの話は、全てハッピーエンド、
大きく言うと喜劇のジャンルのことである。
バッドエンド、悲劇は、特に研究してないのだが、
全部逆ではないか、という仮説にとどめておく。

感動は、あればあったほどいい。
しかし、安易につくる感動ほど安いものはない。
本物の感動を、ちゃんとつくろう。
posted by おおおかとしひこ at 13:24| Comment(1) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
新人様コメントありがとうございます。
参考になれば幸いです。
Posted by 新人 at 2016年07月27日 17:09
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