そもそも表現とは、
「そのままでは飲み込み難い何かを、
受け入れさせる方法」
だとぼくは思う。
そのままでは飲み込み難い何かとは、
主張だったり、分かりにくいけど価値があるものだったりする。
分かりやすくて価値あるものは、
表現などする必要がない。
iPodは世紀の発明のひとつだが、
たいして説明もなくその価値はすぐに受け入れられた。
価値のないものをいくら表現を凝らしても、
それは受け入れるに値しない。
ナチズムの演説は、表現は魅力的だが、
中身は人類が永遠に反省するべき主張である。
あなたには主張がある。
あなたにはなくてもいい。
作品には主張がある。テーマだ。
それを一行書いて、
誰にでも分かり、革新的に新しく、
誰もが納得する価値があるのなら、
それは一行でよい。
なかなかそのようには書けないから、
私たちは表現を凝らすのである。
さて、すぐには受け入れがたいテーマがある。
それを飲み込みやすくするのが表現だ。
たとえば流行を取り入れるのは、
ここで面白いことがやっていますよ、
という客寄せのためであり、
それは中身を飲み込みやすくするためのオブラートであり、
釣り餌である。
分かりやすい表現や、
抵抗のない表現にする配慮も、そのひとつだろう。
誰もがわかることにたとえたりするのも、そのひとつだろう。
受ける表現を持ち込んで釣り餌にするのもそうだ。
釣り餌の中身に本命が忍んでいるのだ。
最近、受けなければ意味がないといって、
その釣り餌ばかりが派手に、大きくなる傾向にあると思う。
ただの釣り餌じゃ満足できなくて、
より大きな刺激じゃないと物足りないようになってきたのもある。
(極端な例をいうと、70年代までは、
銃が一発しか撃たれなくてもショッキングだった。
今は何発銃声を聞かないと満足しないだろうか?)
結果、釣り餌だけで中身が空っぽなのが増えてやしないか。
表現とは、
「そのままでは飲み込み難い何かを、
受け入れさせる方法」だとぼくは思う。
何かがないもの、
シンプルな何かでOKなもの、
価値のない何か、
は、
表現じゃないとぼくは思う。
表現とは、釣り餌を上手くつくり、
それに夢中になっているうちに、
中身を味わうことになり、
いつの間にかその何かを、からだのなかに取り入れているものを言う。
釣り餌と中身が齟齬があるのは下手くそだ。
釣り餌はいつの間にか中身にうまくすりかわらなければならない。
私たちは表現者である。
釣り餌と中身を分離できて、
その相性や齟齬を、認識できなければ、
「表現を理解している」とは言えない。
釣り餌は何か?
テーマは何か?
釣り餌から中身へのグラデーションはどうなっているか?
これらが上手くいっているものを、
ぼくは誉めるべきで、
上手くいっていないものを、出来ていないと言うべきだ。
最近のCMは、ほんとに出来てない。釣り餌が貧弱だ。
最近の邦画もドラマも、釣り餌だけで中身がほとんどない。
CMも邦画もドラマも、表現ではなくなってしまったのかも知れない。
あなたは表現者か?
釣り餌は何か?
テーマは何か?
釣り餌からのテーマへの導線は、面白いか?
いつもその構造を想像しながら、
自分や他人の表現に触れるとよいかも知れない。
2016年07月27日
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