2016年07月27日

表現の構造

そもそも表現とは、
「そのままでは飲み込み難い何かを、
受け入れさせる方法」
だとぼくは思う。


そのままでは飲み込み難い何かとは、
主張だったり、分かりにくいけど価値があるものだったりする。

分かりやすくて価値あるものは、
表現などする必要がない。
iPodは世紀の発明のひとつだが、
たいして説明もなくその価値はすぐに受け入れられた。

価値のないものをいくら表現を凝らしても、
それは受け入れるに値しない。
ナチズムの演説は、表現は魅力的だが、
中身は人類が永遠に反省するべき主張である。



あなたには主張がある。
あなたにはなくてもいい。
作品には主張がある。テーマだ。

それを一行書いて、
誰にでも分かり、革新的に新しく、
誰もが納得する価値があるのなら、
それは一行でよい。

なかなかそのようには書けないから、
私たちは表現を凝らすのである。



さて、すぐには受け入れがたいテーマがある。
それを飲み込みやすくするのが表現だ。

たとえば流行を取り入れるのは、
ここで面白いことがやっていますよ、
という客寄せのためであり、
それは中身を飲み込みやすくするためのオブラートであり、
釣り餌である。

分かりやすい表現や、
抵抗のない表現にする配慮も、そのひとつだろう。
誰もがわかることにたとえたりするのも、そのひとつだろう。

受ける表現を持ち込んで釣り餌にするのもそうだ。
釣り餌の中身に本命が忍んでいるのだ。


最近、受けなければ意味がないといって、
その釣り餌ばかりが派手に、大きくなる傾向にあると思う。
ただの釣り餌じゃ満足できなくて、
より大きな刺激じゃないと物足りないようになってきたのもある。
(極端な例をいうと、70年代までは、
銃が一発しか撃たれなくてもショッキングだった。
今は何発銃声を聞かないと満足しないだろうか?)

結果、釣り餌だけで中身が空っぽなのが増えてやしないか。


表現とは、
「そのままでは飲み込み難い何かを、
受け入れさせる方法」だとぼくは思う。

何かがないもの、
シンプルな何かでOKなもの、
価値のない何か、
は、
表現じゃないとぼくは思う。

表現とは、釣り餌を上手くつくり、
それに夢中になっているうちに、
中身を味わうことになり、
いつの間にかその何かを、からだのなかに取り入れているものを言う。

釣り餌と中身が齟齬があるのは下手くそだ。
釣り餌はいつの間にか中身にうまくすりかわらなければならない。



私たちは表現者である。
釣り餌と中身を分離できて、
その相性や齟齬を、認識できなければ、
「表現を理解している」とは言えない。

釣り餌は何か?
テーマは何か?
釣り餌から中身へのグラデーションはどうなっているか?

これらが上手くいっているものを、
ぼくは誉めるべきで、
上手くいっていないものを、出来ていないと言うべきだ。



最近のCMは、ほんとに出来てない。釣り餌が貧弱だ。
最近の邦画もドラマも、釣り餌だけで中身がほとんどない。
CMも邦画もドラマも、表現ではなくなってしまったのかも知れない。

あなたは表現者か?
釣り餌は何か?
テーマは何か?
釣り餌からのテーマへの導線は、面白いか?


いつもその構造を想像しながら、
自分や他人の表現に触れるとよいかも知れない。
posted by おおおかとしひこ at 20:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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