これまでの議論から、明らかだ。
映画や漫画やゲームには、
我々の暗い欲望が反映されることがよくある。
普段は人に言えない、
人殺しの快楽であるとか、
常識をひっくり返す残虐なこととか、
気に食わないものは全部ぶっ壊れてしまえとか、
そういう感じの欲望だ。
私たちは社会に生きる者であり、
それらを表面に出していては社会が立ち行かなくなるから、
それらは普段は「ないもの」として社会生活をしていることになる。
だけどそれはなくなってしまうものではない。
我々の内側に、暗い欲望として存在する。
完全にゼロである人は、たぶんいない。
1から100ぐらいの強さの差は、個人差があると思う。
釣り餌の話をした。
表現されるものには、釣り餌が必要である。
これらの暗い欲望が、
映画や漫画やゲームの、釣り餌になるということである。
ダークファンタジーやホラーやスリラーや、犯罪ものや刑事ものなどなど。
日常を舞台にしたものだって、人間の薄暗い欲望や行動をする悪役が出てくることがある。
表現とは、これらを釣り餌にして、
本来そのままでは伝えにくい中身を、
うまく止揚して伝えるものである。
薄暗い欲望は釣り餌に過ぎず、テーマではない。
ところが、
読解力の低い人、リテラシーの低い人は、
釣り餌を中身だと早計するということである。
「ゲームや映画や漫画を見ると犯罪を犯す」、
そう発言する評論家は、
その評論家がそもそもこの構造を理解していないか、
本人は理解してはいるが、理解できない馬鹿が多いと言っている、
かは知らない。
いずれにせよ、この言説が流布されるたびに、
誰も何も分かっちゃいないのだなあ、と僕はため息をつくのである。
天狗は面白いけど、それはモチーフであり釣り餌だ。
僕は天狗そのものを書きたいのではない。
天狗を使って、人間の心の正体について迫りたいだけだ。
「ロッキー」は、殴り合う競技を描きたいのではない。
「男は、自分を証明する」ということにボクシングを利用しているだけだ。
手段と目的でいえば、
釣り餌は手段なのである。
目的と手段を混同したリテラシーの低い人を再生産するのを防止する、
という意味でも、
「ゲームや映画や漫画を見ると犯罪を犯す」
などとワイドショーで言う馬鹿を禁止してはどうだろう。
2016年07月28日
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