2016年07月28日

表現の構造3:何故「ゲームや映画や漫画を見ると犯罪を犯す」と思うのか

これまでの議論から、明らかだ。


映画や漫画やゲームには、
我々の暗い欲望が反映されることがよくある。

普段は人に言えない、
人殺しの快楽であるとか、
常識をひっくり返す残虐なこととか、
気に食わないものは全部ぶっ壊れてしまえとか、
そういう感じの欲望だ。

私たちは社会に生きる者であり、
それらを表面に出していては社会が立ち行かなくなるから、
それらは普段は「ないもの」として社会生活をしていることになる。

だけどそれはなくなってしまうものではない。
我々の内側に、暗い欲望として存在する。

完全にゼロである人は、たぶんいない。
1から100ぐらいの強さの差は、個人差があると思う。


釣り餌の話をした。
表現されるものには、釣り餌が必要である。
これらの暗い欲望が、
映画や漫画やゲームの、釣り餌になるということである。

ダークファンタジーやホラーやスリラーや、犯罪ものや刑事ものなどなど。
日常を舞台にしたものだって、人間の薄暗い欲望や行動をする悪役が出てくることがある。


表現とは、これらを釣り餌にして、
本来そのままでは伝えにくい中身を、
うまく止揚して伝えるものである。

薄暗い欲望は釣り餌に過ぎず、テーマではない。

ところが、
読解力の低い人、リテラシーの低い人は、
釣り餌を中身だと早計するということである。



「ゲームや映画や漫画を見ると犯罪を犯す」、
そう発言する評論家は、
その評論家がそもそもこの構造を理解していないか、
本人は理解してはいるが、理解できない馬鹿が多いと言っている、
かは知らない。

いずれにせよ、この言説が流布されるたびに、
誰も何も分かっちゃいないのだなあ、と僕はため息をつくのである。


天狗は面白いけど、それはモチーフであり釣り餌だ。
僕は天狗そのものを書きたいのではない。
天狗を使って、人間の心の正体について迫りたいだけだ。

「ロッキー」は、殴り合う競技を描きたいのではない。
「男は、自分を証明する」ということにボクシングを利用しているだけだ。

手段と目的でいえば、
釣り餌は手段なのである。


目的と手段を混同したリテラシーの低い人を再生産するのを防止する、
という意味でも、
「ゲームや映画や漫画を見ると犯罪を犯す」
などとワイドショーで言う馬鹿を禁止してはどうだろう。
posted by おおおかとしひこ at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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