2016年07月29日

大体、設定の方が多い

経験則だけど、
大体、
設定の方が、
要求する物語よりもずいぶん多くなってしまう。


以前、海外旅行に行くときのトランクの大きさにたとえた。
つまり、「何が起こるか分からないので、多目に持っていく」
という心理が働きがちである。
「料理、作りすぎちゃった」みたいなことか。

たかが設定なんて、その話で使いきるものである。
そう、たかが設定だ。
設定よりも、そこでどんなドラマがあり、
どんな結末があるかの方が大事で、
しかも難しいのである。

凄いのを書こうとして、
設定だけを盛りすぎて、
そこで使いきれなければなんの意味もないのである。

突然思い出したのだが、
エルガイムにおけるファティマ設定は、
殆どなんの意味もなかった。
ヘビーメタルとヘッドライナー(ロボットとパイロット)の、
間に立つ存在のはずだけど、
その役割はそもそもチャムファウが担うはずだったからだ。
(リリスファウだっけか?)
結局どっちつかずで、妖精キャラもロボットに埋め込まれたロボット女神も、
使いこなせずに物語は終わってしまった。
だから、改めてファティマの物語として、FSSを立ち上げた気持ちはよくわかる。
(気づいたのだが、もう30年前の出来事なのだね…)

続編とかスピンオフが派生するのは、
その設定を、その作品内で消化しきってない証拠だ。

ついでに言えば、FSSもストーリーに対して、
設定だけが多すぎる。
設定資料集漫画というジャンルだとの説もあるけれど。

エヴァもそうだね。
本編に対して設定が多くて、
ストーリーが飲み込まれただけだ。
新劇版は完結してから見るつもりだけど。


極端な例を上げたけど、
つまりはそういうことだ。
設定がすごいわりに、
物語が陳腐になってしまっては本末転倒だ。
2人分の料理を作るのに、10人前を煮込みはじめても意味がないのだ。
そして大抵のアマチュアは、
途中で出来ませんでしたと放り出すのである。
(時にプロもか)


これは自戒も込めて書いている。
連載は、多目に用意しがちで、
書いてるうちにいらなくなるものは、結構多いからである。

映画シナリオにおいては、少なくとも使わない設定があってはならない。
それは無駄であり、本来書くべき部分を圧迫する癌である。

癌であるからには、切除すべきである。



最初から最適な量を準備出来る人はいない。
だから、殆どの場合は、
「書き終えたら、使ってない設定を削る工程がある」
ということを意味するのである。

そんな工程をやったこと、ある?
ないのなら、それは偶然良かったか、
使ってない設定だらけのものか、
どちらかだろう。
(完結してないかもだが)



と、いうことで、
使ってない設定の削り方について議論しよう。
長くなりそうなので、一端つづく。
posted by おおおかとしひこ at 12:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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