2016年07月29日

使ってない設定を削る方法

前記事のつづき。

そもそも「これ結局使ってないやんけ」
と、客観的に気づくことは大変難しい。
世界を作ることは大変快感であり、
それを削るのは苦痛であり、
世界を狭めるのは自分が否定される心理が働くからである。


ということで、
物理的にただカットするのは、
必ずしも上手な削り方とは言えない。

もちろん、強引なカットが客観的には効果的に働く場合もあるので、
大鉈をふるって世界を切り刻んでいいものになることもある。
まずそれをやるだけで良くなることも多いので、
原始的にこれをやることは無駄ではない。

しかしそれは、豊かなものが痩せるだけの場合もあるので要注意だ。
(本編に使っていないから切る、というのが原則)


いい削り方のひとつは、
Aを削るとき、Aをなかったことにするのではなく、
Aを裏にすることである。


裏と表というのは、
「シナリオ中に明示されていること」が表、
「明示されてはいないけど、作中の人物や世界は、
それを前提として動いている」が裏である。

たとえばサザエさんの中嶋は、
「野球をいつもやっている」が裏にある。
だけど中嶋が毎日野球三昧かどうかは、表で描かれることはない。
しかし、「磯野、野球しようぜ」のいつもの登場シーンは、
彼が野球をいつもやっていることが前提で、
世界もカツオも動いている。

私たちは、中嶋の言動や周囲の言動が前提にしていることを読み取り、
中嶋は野球をいつもやっているという裏を、
想像して読み取るのである。


ドラえもんの空き地は、
ひょっとするとこのあとビルやマンションが立つのかも知れないが、
その設定は明示されない。
子供は積まれた土管が楽しそうだと思うだけだが、
大人なら、あの空き地は一時期だけのものであることや、
それは子供時代も同じだということも知っている。
つまり、空き地の「裏」を把握することが出来るわけだ。

もし空き地に「8月完成予定」なんて看板がたち、
物語の表として描かれていたら、
想像の余地が少なくなるだろう。
裏にすることは、想像の余地を作ることでもあるのだ。

逆に、
設定がきちんとあることを裏にしていることで、
想像力が膨らむ世界を作ることも出来るのだ。


何を表にして裏にするかは、
作者の手腕だとも言える。
もし藤子不二雄が「あの空き地は半年後マンションになる」
と思っていたとしても、
それを一切描かずに裏にしていたとしたことで、
ドラえもんのテーマは「子供時代は一時の黄金時代だ」が、
含まれている可能性も出てくるわけだ。
(いわゆるドラえもんの最終回、「さようならドラえもん」を見る限り、
そう思っていた可能性は高い)



たとえばファンタジー世界の貨幣制度は、
金本位制なり物々交換なりバーチャルビットコインなり、
作っておかないとならないだろう。
贋札の頻度やその見分け方になどについてもだ。
株はあるのか、その原型となる互助会があるのか、などなどもだ。
貨幣の種類についても設定するべきだろう。

ところが、貨幣そのものがストーリーに絡むことはほぼない。
両替商の話とかじゃないかぎり。
じゃあまるまる削ればいいかというとそうでもなく、
たとえば市場で買い物をするときも、
店主が身なりをじろじろ見て、手渡した銀をかじり、
「偽造じゃねえらしいな。どこで手にいれた?」
なんて慇懃に聞いてくるなどを付け加えれば、
そこの世界のお金に対する設定が、
ある程度読み取れるものだ。
(あまりファンタジーが得意ではないので、
例が陳腐なのはすまない)

ストーリー事態には絡まなくても、
裏にある前提で皆が動くことで、
それがあるように設定することも可能である。


ただ削るのが愚かなのは、
このように出来る可能性を捨てることでもある。

ざっくり削って、
やはり表にせず裏にすべきだと思ったら、
切除が終わった原稿にたいして、
少しずつこのようなものを足し直していくと、
元原稿の豊かさは失われないかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 16:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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