これまでと違う角度で気づいたことがある。
映画は受動的に見るもの、
小説は能動的に読んでいくもの、
そういう違いについて。
映像というのは、受動メディアだ。
ほっておけばはじまり、中断することなく、
終わりへ連れてってくれる。
最近なら一時停止も巻き戻しも可能だ。
インタラクティブだろうがなんだろうが、
基本受動的でいればいい。
だから、イマジナリラインというものがある。
この線からこちらは舞台、
この線からそちらは観客席、
というものが。
だから、映画というものは、
基本的にイマジナリラインを越えずに、
そこでやっていることに引き付けて、
いつの間にかそこに参加している気になるようにするものである。
我々は観客席に働きかけることはしないし、
観客席からスクリーンの中に入ることはない。
私たちは観客と、触れあわない。
(メタ言及、楽屋落ち、デウスエクスマキナなどは、
イマジナリライン=第四の壁を越える例外であり、
この原則を破る不遜な行為である。
発明当初は面白がられたが、第四の壁を感じさせないものこそ、
上等な映画なのである)
一方小説だ。
小説は能動的に、主体的に読まない限り、
進まないメディアだと思う。
僕は小説を読むが苦痛で、とりわけ苦手だったから、
余計そう思うのかも知れない。
生涯読んだ小説の数なんて、積んでも1メートルくらいにしかならないと思う。
(映画DVDや漫画ならひと部屋埋まると予想)
結局、自分が小説が苦手な原因のひとつとして、
「それだけ苦労する割りに果実が少ない」
ということに尽きるのではないかと思う。
映像を見るのに殆ど苦労はないから、
詰まらなくてもまあいいや、ということになるけど、
小説は、映画より時間と能動性を使うからには、
そのコストに見合うリターンを、
無意識に求めているのではないかと思う。
つまり。
映画のノベライズが面白くない理由がこれだ。
映画で受け取れるものと、同等のリターンが、
コストをかけて読む小説で得られたとしても、
リターン/コストが小さすぎるのである。
映画のノベライズに必要なものは、
小説的面白さなのだ。
「小説的面白さ」が何をさすのか、
小説に詳しくない僕が表現することはうまく出来ない。
生涯の少ない経験で言うと、
「主体的に読解していく面白さ」ではないかと思ったのだ。
小説にはイマジナリラインがない。
物理的には、文字のある空間、紙やモニタだ。
だけど主体的、能動的「読解」という行為は、
そのイマジナリラインがないものとして、
目の前に文字ではなく、
風景や人物などの絵や、
思考や気持ちや心理や、
自分なりの解釈や作者の意図の推理などを、
浮かび上がらせる行為だ。
つまり、読解というのは、文字を見ずに、
その文字の意味を見ている行為である。
これが、「面白い」ように、
小説は書かれるべきだと思う。
ただ、面白い話をしても、多分ダメなのだ。
小説的に、面白く語らなければならないのだ。
さて、賢明なる読者諸君は、
これが小説版「てんぐ探偵」の分析であることは、
既にお察しのことであろう。
元々てんぐ探偵は、ドラマとして話がつくられた。
深夜枠、ニチアサ枠、プライム枠などを、
転々としながら、エピソードを増やしていった。
それらを集大成するのに、
脚本形式では殆どの人は読めないから、
小説形式にして誰もが読めるようにしておこう、
というのが小説化の意図だった。
だから、ノベライズが元々の動機なのだ。
ところが書いているうちに、
それだけじゃダメなんだ、と思い始めてきた。
その時には言葉にならなかったが、
全てのリライトを終えて、客観的になり、
ここに言葉として記しておくことになったわけだ。
今公開されている中では、
#3「爆音ギタリスト」、
#6「あのとき、出来なかったこと」
は、他に比べて「小説的」であり、
他はノベライズ的であると感じる。
実写特撮ドラマ(またはアニメ)で見れば間違いなく面白い話だが、
小説としては、「能動的に読む面白さ」がないように感じる。
一方、#3、6が小説的に面白いとすれば、逆にドラマ化の際、
表現できない部分が出てきている。
(例:ラストの部分。
・真理のギターは、今までで一番大きい音を出した。
・そして、有加里の夢を聞こうと思った。)
これはト書きではない。
三人称形のト書きでは表現できないものである。
ギターが大きい音を出してもうるさいだけだし、
夢を聞こうと思っているかどうか、表情から読み取ることは出来ない。
おそらく、ここが小説的なのではないかと思うわけだ。
文章にある光景をそのま受動的に見ても、
文の意味にはならない部分。
それは文脈の理解から来る意味を足している、読解の部分。
(上の例では、いい子の鎖から解放され、自由を歌った、という意味。
下の例では、若い頃の夢を娘に押し付けるのをやめたという意味)
小説というのは、
多分冒頭からエンドまで、
こういうもので織り成していくものなのではないかなあ。
逆に言えば、このような楽しみは映画にはない。
読解の面白さはある。焦点という形でだ。
(逆に小説では、映画的焦点はさほど面白くない)
映画はレポートの面白さだ。
小説は(映像や音楽がない分)、
レポートだけでは物足りない。
ということで、
言い訳めくけど、今後のてんぐ探偵、
ノベライズ的なものと、小説的なものが、
ランダムに混ざっています。
それに意図はなく、偶然です。だって今気づいたんだから。
最新#7「寂しさは、リレーしない」
いい話だし、ラストが新しいパターンだけど、まだノベライズ寄りかな。
次回#8「妬みは天下の回りもの」は、ラストが小説的だと思われます。
そして長期的な予告をしておくと、
小説的な成分はどんどん増えていきます。
それは、僕が小説的スキルを書いている途中に身につけたからでしょう。
(最終回なんて小説でしか表現できないよ、
ドラマ化の脚本どうすんだよ)
序盤戦の何かの物足りなさは、
小説としてどうか、ということだったのではないか、
そしてそれは、読解という小説にしかない、楽しみの果実ではないか、
というのが今回の結論。
ステマ記事?
いやいや、実戦で学ぶとはこういうことさ。
ということで、お話としては面白い水準を保ちながら、
小説的にどんどん面白くなっていくてんぐ探偵、
今後ともよろしくね!
(じゃあ今回の要素を再びリライトして…いやいやいや…)
脚本論に強引に戻せば、
レポートでないものをレポートの面白さに変換しないと、
小説の映画化は、困難なのではないかなあ。
2016年07月30日
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