と題してみたけれど、
実はカタルシスやラストシーンは、
パターンはほとんどないんじゃないか、
という話。
「不幸は星の数ほどあるけれど、
幸福の形はただひとつ」
みたいなことだ。
つまり、ラストシーン、カタルシスというのは、
「これまでの不幸が幸福に変わる瞬間」に他ならず、
変化後の幸福には、あまりパターンやスタイルなどないと思う。
すなわち、
星の数ほどあり得る不幸のパターンから、
新しい不幸を創作すること、
それが幸福に転じるまでの、
大きく言えば上昇曲線(山あり谷あり)を、
どう設計するかの方が、物語創作なのである。
僕はラストシーンがすごく好きで、
これまでいかにそのラストを書くか考えてきたけれど、
沢山のラストを書けば書くほど、
それは序盤に提示する不幸のバリエーションに比べ、
たいしたパターンがないことに気づいてきた。
短編の異常な終わり方ならば色々なパターンが作れるけど、
長編にはさほど変わった終わり方はないと思う。
不幸の除去であったり、
自己実現であったり、
家族の平和であったり、
暖かい寝床や食事がある幸せだったり、
何でもないようなことが幸せだったと思うことだったり、
世界平和だったり、
戦争の終結であったり、
秩序の回復であったり、
社会の安定であったり。
ものすごく乱暴にいえば、古典的な言葉、「真・善・美」
に至ること、のような気がする。
(バッドエンド、ビターエンドはのぞく)
しかし、それぞれの物語が、
似たようなラストなのに素晴らしいエンドだと感じられるのは、
最初に提示する不幸がオリジナリティあるシチュエーションだったり、
ラストに至る経緯がオリジナリティに溢れ面白かったりするからである。
つまりはモンタージュ効果だ。
前段にあるものが違えば、
後段に来るものが同じでも、
違ったものに見えるからである。
ラストは単独で存在するのではなく、
これまでのこと全てを含むから、意味があるのである。
ということで、
カタルシスのシーン、ラストシーンを先に書いておいて、
そこに至るほとんどのオリジナリティをつくる、
という昔書いたやり方は、
案外正しいかも知れない。
明確なカタルシスというゴールが決まっていれば、
どうやったらそこへ迎えるか、
今道をそれているかどうか(わざとも含む)、
それ以前にどういうカタルシスがあるべきか、
などを、
判断出来る。
そしてそこにこそ、作家の独自の工夫が存在するわけだ。
モンタージュ効果を信じよう。
よくあるカタルシス、ラストシーン、ゴールだったとしても、
そこに至る不幸からの駆け上がりがオリジナルであれば、
そのラストはオリジナルになる。
不幸は星の数ほどあるのだ。
2016年08月01日
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