物凄い物量のキャストだった。
オールスター×癖の強い役者たち。
キャストだけなら三谷映画より豪華だろう。
それぞれにアップがあって、正月映画かと思ったよ。
それがとても東宝的だった。
物凄い物量のスタッフだった。
製作委員会の規模もだ。
ゴジラの大本命を作るに当たって、
物凄い物量の政治があったことが想像される。
特にびっくりしたのが、
プリビジュアライゼーションスタッフが、
きちんとクレジットされていることだった。
プリビジュアライゼーションとは、
製作前に、
こういう技術でこういう絵を作ります、
というテスト撮影のようなものだ。
本編スタッフではなく、別スタッフがクレジットされていたから、
彼らは長いこと実験を繰り返し、試行錯誤し、
失敗を反省し、
成功したやり方だけを本編に使ったはずだ。
これがやれる現場は、日本映画にはほとんどない。
だから日本映画は、いつまでたっても新しい絵が撮れないのだ。
実験を実戦でやって失敗し、
爆死している映画は死ぬほどある。
特に日本映画は、撮影後いまいちだったので再撮影する仕組みはない。
本番一回だけであとは編集しかない。
だから撮影現場で実験する余裕はない。
この映画だけが特別テスト撮影出来たのは、
ゴジラだからだろう。
つまり東宝の意地があり、
その為に政治的資金を集める、
「ゴジラだからという理由付けが出来た」からだ。
このクオリティを、新作でやるべきなのに!
日本の映画の仕組みは、今曲がり角に来ている。
失敗出来ない資金繰りの仕組みが、
成功する原作の映画化にしか金を出さない。
だから、原作の映画化にはなっているが、
面白くもない映画が量産され、
映画そのものの熱が冷えようとしている。
オリジナルは、どんなに面白い脚本を書いても、
資金が集まらず、集客の保証がないとして作られない。
(だって製作サイドが映画館に営業補償金払ったりするんだぜ。
そんな大博打、一本単位じゃ出来ねえよな)
だから製作委員会システムだ。
リスクと資金をみんなで持ち寄る。
その中心には、集客の保証が必要だ。
集客の保証は、どこかよそから持ってくる。
人気原作、人気芸能人、過去人気作のリメイク。
いまや、それ以外を探すことが困難だ。
映画は何故オリジナルを作らないのか?
僕は東宝の人間じゃないから、
ほんとの所は分からない。
でも、外から見る限り、上に書いたことが正しいように見える。
オリジナルを作らないものは、いずれ滅びると思う。
シンゴジラは、凄まじいまでの総力戦だった。
シナリオも、キャストも、スタッフも、政治もだ。
その総力戦は、日本映画の死を早めただけじゃないのか?
ここまでビジュアルが出来ることは分かった。
あとはオリジナル脚本だよな?
じゃあそのオリジナル脚本を、どうやってビジネス化する?
その方法論を、この総力戦が断ち切ったんじゃないか?
僕は、ラスト、指示を出していた屋上が、
明治生命記念館(現明治安田)だと知っている。
ロケハンしたことあるからね。
戦後、あそこはGHQに一時期接収され、
戦後処理の指令館だった歴史も知っている。
庵野はそこまで知った上で、
あそこをラストに選んだはずだ。
余所者に指令された戦後を、
もう一度日本人の手でやろうとした意味を、重ねたはずだ。
(追記:科学技術館だそうです。よく似た屋上があるものだねえ。
「日本の一番長い日」のオマージュだそうな)
でもなあ。
主人公とアスカラングレーが会話してるツーショット、
後ろに写っているのは、
屋上のダビデの星を模した壁だった。
ユダヤ人の資金提供を受けて作った映画なのこれ?
そこまで分かってやったのかいこれ?
じゃあ、東宝はアメリカに買われたってこと?
傀儡じゃねえぜというのは、東宝の意地?
邪推はやめておこう。政治に手を出すのも面倒だ。
とにかく。
映画制作に必要な資金と政治の比率が、
我々脚本家や監督が作る娯楽や人間ドラマに対して、
大きすぎやしないか?
デカイスポンサーがぽーんとはたいてくれるバブルが終われば、
映画は死ぬのか?
それは今後の日本映画のあり方でわかるのではないか。
この総力戦が、希望とは真逆のものを示した気がする。
2016年08月02日
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>>オリジナルは、どんなに面白い脚本を書いても、
資金が集まらず、集客の保証がないとして作られない。
(だって製作サイドが映画館に営業補償金払ったりするんだぜ。
そんな大博打、一本単位じゃ出来ねえよな)
制作サイドが映画館に営業保証金を払うというのはどういうことでしょうか?
映画館で作った映画を上映してもらう為に支払う
いわば「ショバ代」みたいなものということでしょうか?
映画館は映画が売れたら
利益の何割かをもらうというシステムではなく、
映画の動員数(利益)とは関係なく常に一定の保証金を受け取っているということでしょうか?
どういう意味があってそのようなお金を払っているのか、理解がしたく質問させて頂きました。
(脚本とはあまり関係ないかもしれませんが・・・)
お教えいただけますと幸いです
動く絵コンテに近いと思います。
そのプリビズは、インディ4でやったような、
マヤの粗モデル合成みたいなやつですね。
動く絵コンテという言い方は変ですねえ。
絵コンテを見て動きを想像できない人は、
絵コンテを見る資格がないからです。
つまり、絵コンテを読めるスタッフが、
日本映画にいかに少ないか、
という悲劇を現していることになりますね。
(絵コンテでスケジュールや見積もりを作れる人も含む)
僕が映画をやったときもそうで、
ほんとに頭が痛くなりました。
(1000カットの絵コンテがあります。
どこかで公開するかもなあ)
実は「いけちゃんとぼく」ではそういう進行を望んだのですが、
CGスタッフが決定したのが撮影一週間前でした。
そういう進行のなってなさ、
目的のために編成を変える柔軟性のなさが、
日本映画業界の問題点です。
それを、外様にやらせる、ということが、
この総力戦になんの意味があるのか、ということ。
庵野監督からしたら外様じゃなくて、気心知れた身内だと思うんですけど。
ということです。
庵野監督(と引き連れてきたスタッフ)が外様ということ。
制作期間が短いために作業を分割して複数チームで並行作業するために、人材をかき集めて来たって事は別に、プロジェクト運営の方法として普通だと思いますし。
撮影所システムのような日本式共産主義は、
もう訪れないでしょう。
現状のシステムは、合理の結果というよりは、
現状でしかありません。
そして、そのシステムをもってしても、
ここまでしか出来ないという限界点が見えた、
と僕は考えています。
現状の製作委員会システムは、僕は映画の癌だと考えていて、
それについてはこのブログでかなりの頻度で批判しています。
ようやく全身に毒が回ったか、ということ。
じゃあ第三の方法は、という話になりますが、
それを僕は実生活で模索しているわけです。
その点の認識違いが、本記事のお話にも多少影響しているように見受けられましたので、指摘させていただきます。
お話の本筋とはあまり関係ない点のため、無粋を承知ではありますが。失礼いたしました。
のちの論では直してあるんですが、元記事にも追記しておきました。
…時流を掴めないクリエイターの、魂の叫びとして。
だってそうでしょう?
「才能ある奴がビッグバジェットと組んで面白い作品撮っちゃうなんてズルい!今後、俺がやり難くなるじゃんか!」って臆面もなく書いてある訳ですから。
敢えて言います、甘ったれんな。
プリビズ作らせてもらえるなんてズルいズルい!じゃないわ。
他の方もコメントされてますが、絶対的に撮影時間が取れないが故に子飼いのスタッフを動員した窮余の策、とのこと。
では何故、庵野には子飼いのスタッフがいるのか。
それは、日本の映像制作システムの問題に自覚的に取り組み、10年前に40代前半で会社を立ち上げ自前のスタジオを保有しているから。
そんなの使うなんてズルい、問題だ、とか言ってる場合か?
カラーがプリビズ作りのノウハウ持ったのが分かったんだから、欲しいなら自作を撮る時カラーにプリビズを発注すればいい話。
ただまぁ、映画への熱い想いには感心させられましたよ。
共感はしませんが。
これが邦画を糞にした思想なんだなと興味深かったです。
人間を描け、人間ってこうだろ?と例示された一節の、なんと陳腐で糞ダサいことか。
ちょいちょい入れてたら、作品のリズムもテンポも崩壊して面白みも半減していたことでしょう。
ドラマを描け、キャラクターは公も私も描け、コンフリクトを入れろ、過去の傷を負わせろ…
脚本の基礎、らしいですね。 これが無いものは映画じゃない?
…は。観客として率直に言いますが、そんな古臭い固定観念にしがみついてるからいつまで経っても客にウケないんですよ。
そもそも、ですよ?
脚本の基礎って、なんの為にあるんですか?
そこまで遡って考えたことありますか?
元々は、「これをやっときゃまぁまぁ話は成り立つ、客を楽しませることが出来る」という、言わば安パイの集大成でしょう?
紀元前から連綿と続く人類の叡智の結晶、ではあるでしょうが、そこからはみ出た作品は一切認めないと言い切るほどに頑迷な教条主義者が、一体どんな「オリジナル」を構想するのやら…
ちょっとだけ興味はあるかな。
金払う気はしないけど。
去年のワーストは僕はシンゴジラでした。
映画がアトラクションになるのなら、
それはもうVRに勝てないと僕は考えています。
僕はアトラクションじゃなくて、物語が好きなので。
ただね、やっぱりどうしても物申したくなります。
ものごとに好き嫌いは当然有りますよね。
俺はあれは嫌いだ、それは全然いいと思うんです。
けれども、あれは物語じゃないから、アトラクションに過ぎないからって言われると「ちょっと待て」と。
教科書に載ってない文法の脚本に出会った時、こんなの教科書にない、こことこことこことここを直して教科書通りにしろ、とあなたは…
あなただけじゃないな、脚本家ムラの人々は言った訳です。
このあたり、閉鎖的な田舎の農家に似ててね。
寂れた農村に現れた商才ある余所者が、伝統農法を復活させ、販路を自力で開拓してブランド農家として成功したとします。
その時、大抵の地元民はどうすると思います?
そう、あなた方と同じ。
ムラのしきたりはこうだと、農協の言う通りにやらなきゃダメだと、全力で拒絶に回って脚を引っ張るんですよ。正にコンフリクト。
ムラを豊かにするにはどちらが有効なのか、なんて関係ないんですね。
外部から持ち込まれた新しい文法(実は古くからあるが主流ではなかっただけ)を、知ってるのと違うからとツブす。
じゃあ、多くの客が喜び、カネを払い、脚本も評価した事実をどう捉えるの?と
好きになれなんて言わない、真似ろとも言わない。
ただ、最低限、受け入れるべきだとは思う。商業作品に携わる者なら。
それをしないから、余所者やそのやり方を排除するから、近親交配を繰り返した挙句に邦画界は絶望的に活力を喪失したんじゃないですか?
僕は邦画村の人間でも、脚本村の人間でもありません。
現状の邦画が大嫌いな人間の一人です。
第一今の邦画村にも脚本村にも入れてないし、
今後オファーが来ることもないでしょう。
売れたことと、脚本が面白いことは違います。
シンゴジラの受けた部分は、
(従来の文法の意味の)脚本パートではなく、
災害シミュレーションの部分と、
(普段黙って働く日本人の)メアリースー願望が満たされた部分だと考えます。
(メアリースー願望を満たすものが金になりはじめたのは、
「かもめ食堂」がおばさんたちに受けたあたりですかね)
石原さとみの役が気持ち悪いアスカみたいでなければ、
ここまで僕は嫌いでなかったと思います。
アニメと人間社会は違う。
どう違うのかまだ言葉になってませんが。
足りないから足したって、脚本は良くなりませんよ。
そんなこと言うのはダメな脚本センターの人ですかね。
売れる、と脚本の評価は違う。一般論として完全に正しいんですが、
少なくともシン・ゴジラはキネ旬脚本賞ですからね。
脚本を評価した人が一定数いたことだけは事実です。
石原さとみは…
まあ、あそこは割れますね。そこは仕方ないかな。
賞というものはオールタイムベストではなく、
その年の出来の良かったものに上げるものです。
その他の小粒よりは頭ひとつ抜けてたのは確かです。
しかし、原作ものが幅を利かせすぎて、
完全にオリジナル脚本は絶滅危惧種ではないかと感じました。
その年の興行成績ベスト20との比較をしてみたくなりますね。