僕は元アニメ(ヤマト999以来)オタクで特撮オタクだった。
いまだに映画オタクで格闘技オタクなので、
オタクというものに長年親しい。
だから同族嫌悪もあるかも知れないし、
反面教師としようとしてるのかも知れない。
僕はオタクの人間性が嫌いだ。
オタクはリアルワールドでは敗北している。
だから知識だけで偉くなれる世界に浸る。
肉体を鍛える軍人にはなれないし、
コミュニケーション出来る政治家にはなれないし、
才能が認められないから科学者にもなれない。
自分は何もできないのに、
プライドや知識だけは普通の人以上にある。
それがオタクだ。
リアルワールドの敗北が、
ただ受けとるだけで偉くなれる世界へ走らせたのだ。
だから、
オタクが描く主人公像は、
プライドを満たし、かつ自覚的欠点を全て隠す、
すなわち、能力の高い完璧超人である。
(俺ツエーも同じ原理)
オタクは現実の人間を知らない。
オタク達のことしか知らない。
だから、外面の完璧超人か、
中の人のリアル、敗北者で知識だけはあるプライド高き人、
の二種類しか人間を描けない。
人間のステレオタイプが、その二つしかないのだ。
(正確に言うと三人目、ビッグマザーもいる。
それはメアリースー的世界観だ。フロイトと関係あるかもだ)
シンゴジラの登場人物の気持ち悪さは、
全てはそこに由来していると感じる。
僕は、オタクが悪いとは言っていない。
実写映画で、あれだけのキャストを使いながら、
たった二種類の人間しか描けないことを批判しているのだ。
(平泉成がいたので、三人か)
人間というのは、長所もあれば欠点もある。
長所が短所は地続きになっている。表裏の関係だ。
強く見られたいけれど、弱味を見せて甘えたいときもある。
公私はわけたり混同する。
駆け引きもすれば感情に流されることもある。
無知だったり動物的だったりする。
それは、自分だけではなく他人もである。
人間は、自分と違うそのような人たちとコミュニティを形成して、
日々不平を言い、日々理想を願いながら生きている。
そういう感じが、シンゴジラから感じられなかった。
表に描かなくても、裏に持っている感じすらなかった。
勿論上の人間観は僕の人間観にすぎず、
別の人間観があってもいいと思っている。
しかし、たった二つの人間しか描いてないシンゴジラが、
人間を描いたといえるのか?
オタクは二種類の人間しか知らない。
完璧超人と、欠点だらけのプライドマン。
オタクなりに人間を描ききったのかも知れないが、
世間の人間は、もっともっと複雑で広くて深いと、僕は思う。
僕はある時期から、オタクの世界にこもらずに、
実社会に出なければと思ったことがある。
自分は人間を描くのに、人間を知らなすぎると思ったからだ。
いまだに人間というのはよく分からないが、
少なくとも二種類しかいないわけではないということはわかる。
オタク達はそろそろ、
完璧超人と、欠点だらけのプライドマンしか出てこない話を捨てて、
さまざまな人間のいる世界を描いてはどうか?
長所もあれば欠点もある人間が、
長所で短所を克服する物語を書いてみてはどうか?
完璧超人が変化しない物語か、
欠点だらけのプライドマンがスターダムに何故かかけ上がる物語の、
完璧主義の二択から離れてはどうか?
人間はもう少し微妙な存在だと僕は思う。
全能でも無能でもないと思う。
シンゴジラの人間観は、きわめていびつだと僕は思う。
2016年08月02日
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余談ですが243通りの性格を網羅した本を最近見つけまして非常に面白かったです。実際は200,300じゃきかないでしょうねー。
70億種類ぐらいじゃないでしょうか。身も蓋もないですが。
シナリオ上では、5、6人をきっちり書き分けられればOKと僕は考えています。
また性格分析は、西洋占星術の基礎、地水火風の四元素の組み合わせで僕はとらえています。
性格というのは、シナリオでは単独でいるときでなく、
相手との絡み方で表現されるので、
組み合わせパターンで考えたほうがいいと思います。
過去記事を検索してみてください。
観終わった後、「金と時間を返せ!」と強く思った作品でした。
こんなに登場人物が多いのに、だれ一人として、全く感情移入できません。
うまく説明できないのですが、画面の中で生きている感じがしないように思いました。
特に石原さとみが何かしゃべるたびに背筋がぞわぞわっときて、映画の後半は地獄でした。
この映画は傑作だ、初代に並ぶ、という意見を見るにつけて、とてもそんな風には思えず、もしかして自分の感性が鈍いのかと心配でしたが、
筆者さんの冷静な批評で、私が感じていた違和感が明らかになった思いです。
早口でしゃべるオタクと、無能な政治家の2種類の人間しかでてこないよ!と思っていたので、
ああ、やっぱり同じように感じた人もいたのだ、とうれしく思いました。
この映画を傑作だと思う人は、
特撮部分に胸がすく思いをした人で、
これまでのプロレス路線が嫌いな人で、
かつ人間を二種類ぐらいにしか分類できてない人だと思います。
批評のつづきに、少しばかり人間の可能性を示唆しておいたのでそこもあわせてお読み下さい。
拙い感想で失礼いたします。
私個人の感想としては、登場人物達の背景描写に関しては不要であったと考えています。
敢えて見せないことで、様々な事情を背負いながら国家を守るという大目的の為に組織の中の個として働くという、ある種日本的な美学を持ったキャストとして描かれていた様にも感じました。
個々の人物の背景描写やサイドストーリーに関するスピンオフ作品が有れば面白いとも思いますが、あの展開のテンポの良さは間違いなく、寄り道をせずに「ゴジラをどうにかする」という目的に向かった成果だと思います。
良くも悪くも、疑似ドキュメンタリー映画であり、庵野版プロジェクトXだったのではないでしょうか。
色々とツッコミ所はある映画でしたが、個人的には大満足の一作でした。
お目汚し失礼しました。
疑似ドキュメントに振り切るならば、もっと人の描写は不要だと思います。
また、鼻つまみ者たちのヘンテコチームが逆転する、という大枠のストーリーラインすら不要と考えます。
瓦解した日本組織が自己修復してゆけばいいと思う。
それを淡々とやり、鼻つまみ者のルサンチマンは要らないと思います。
「世界侵略:ロサンゼルス決戦」のバランスだと国家マンセーになり、「クローバーフィールド」だと個人に寄りすぎるので、その意味で集団にバランスを振ったような気もしますが、
却って人間ドラマのチープさ(主人公と石原さとみがアニメ臭い)が浮き彫りになったというか。
もし二つの映画を見てないのなら、見てみると比較検討出来てよいかもです。
また、自身をオタクだと言いながら、そのオタクをここまでステレオタイプにしか捉えられていないことが悲しい、と個人的には感じられました。
(そもそもオタクって人種として明確に定義できる根拠などありはしないと個人的には思いますが……)
オタクは逃げている、自分の世界にこもっている……20年前であればそれがオタクだと納得してもらえたかもしれませんが、もう通じませんよ。
もっと人間を見てください。人間ドラマを描けというなら、もっとオタクと呼ばれている人たちのことを見てください。
オタクがどうこうはさておき、
私はこの映画、人間を描けなかったのではなく、あえて描かない選択をしたのだと観ています。
その良し悪しは観客の感じ方によるので、どうと言えるものでもありませんが、
映画の出来不出来を語るのに「人間が描けていない」というのは、どうにも違うように思います。
ほんとにあえて書かなかったのかなあ。
書けないからこうせざるを得なかったんじゃないかなあ。
エヴァ、ラブ&ポップ、式日、と見てきた自分は、書けなかったんじゃないかと感じました。
人間が書けてないというのは言い過ぎで、
正確なのは「書けていたのは幼稚な全能感溢れる、
(昔式の)オタクの願望であった」というべきかもです。
なので、主人公の願望的ストーリーラインを外して、
もっと人間ドラマを削ぐべきだったと現在は思っています。
(ちなみにここは脚本を議論するところで、脚本的内容のみを扱っています)
今のオタク達は、進化してる人も旧式の人もいる、
というイメージです。
しかしそれが、そうでない人と相互理解出来るか、
というと、未だに同じ問題を抱えているとは思います。
クラスタ間の争いや相互不可侵的な感じも気にはなります。
で、それは本題ではないのでこのくらいに。
ほぼ同じ感想を持ちつつも言語化できずにおりましたので、たいへんありがたく拝読いたしました。
脚本によるものか演出によるものか、私では判断できませんが、あまりにもアニメ的。
また、あえての早口としたようですが、セリフが聴き取りにくく、観せることを意識していない自己満足な作り。
声優さんの方がきれいに発音なさいますので、声優さんが声をあてていたらセリフは聴き取りやすかったのかもしれません。
すなわち、声優さんが基準のセリフ回しという印象を受けました。これもアニメ的な視点からの実写映画作りという印象に繋がります。
見るに耐えず、半分に辿り着く前にリタイアいたしました。
見当違いな意見でしたらすみません。
仮にこのセリフ群を、
このテンポでとても流暢に聞き取りやすく出来たとします。
(声優起用でもよいし、実写俳優がトレーニングしても良いし、
徹底的なオーディションの末、そういうアンサンブルを作っても良い)
つまり100%脚本が露わになったとして、
見えてくるものは何か、ということです。
ストーリーというものは、
「都合や背景や性質が異なる者たちの、呉越同舟や敵対、
およびそれらが解消するまで」
です。
この物語にそれがないのです。
性質が異なる人格は大杉漣の首相だけで、コメディの役割です。
あとはすべて「同一人物の別の側面」に、
キャラクターが割り振られていて、
「同じ目的に対して協力しあう内臓」
のように会話がなされています。
つまり有り体に言うと、
この脚本は「長い独り言」です。
大杉漣の退場は、
「以後独り言の気持ちよさを確保した」の宣言です。
「何も言わずに協力しあう日本人の底力」
なんて評価をする人は、
「自分と違う他人が存在していることが許せない。
みんな均一であればいいのに」
と深層心理で思っている人だと思います。
だから自衛隊の演説に感動するのでしょう。
(逆に言うと外国人から見た、日本人の気味悪さは、
この均質性かもしれません)
ストーリーというのは、
「異なる人たちの争い、または協力」を描き、
それを作るのが脚本です。
この脚本は、
「同一人物の協力」が書いてあるだけです。
全体に漂うアニメ臭の正体はそれかも知れません。
なにせオタクは他人と関わるのが下手で、
避けて巣に帰りがちです。
極論します。
「他人との関わり合い」が映画です。
「独り言」がアニメ臭です。
アニメ監督が実写コメディを撮った作品に、
「私の優しくない先輩」があります。
川島海荷の最高に可愛い時期の作品ですが、
溢れるアニメ臭が酷い出来で、
御多分にもれず、ひたすら独り言を言っています。
アニメ監督が悪いのではありません。
物語を「他人との関わり合い」ととらえず、
「独り言」と捉えるのが問題です。