2016年08月03日

災害とテーマ性(シンゴジラ批評7)

そろそろシンゴジラの中心に行こうか。
テーマだ。

「ゴジラという災害がやってきたときに、
人々が見せる人間らしさ」みたいなことを、
描こうとしているはずである。
少なくとも企画書にはそうあっただろうし、
それがコンセプトだろう。
(初代回帰と311の現実を鑑みれば、それは最も妥当だ)

しかし、「名もなき人が、
災害に当たって見せる人間らしさという群像劇」
として、これは妥当な脚本か?


たとえば。
一介の消防士、
一介の看護婦、
一介の予備校生が、
それぞれ個人的な何かを達成しようとしている時に、
災害に会う。
個人的な事情はあるものの、
目の前の悲惨に対して、
私を捨てて奉仕したり、
逆に逃げ出したり、
火事場泥棒したりする群像劇は、
あり得たと思う。

これらを一介の官僚が対ゴジラ指揮官になる話と、
カットバックする話は作れるだろう。
最終的にその群像劇が、
東京駅前で交差するだろう。
なんらかの形で作戦参加のボランティアになる、
という話がいいと思う。


僕はシンゴジラに人がいない、と批判するのは、
登場人物全員が、「仕事」として行動しているからだ。
彼ら自身が仕事をどう考えているか、
本音のところがちっとも透けてこない。
主人公の付近は出世を考えている程度。
自衛官はローテーションで問題なし。
システムとしてはリアルだけど、
人としてリアルじゃない。

仕事の遂行だけで事が進むなら、
世の中の仕事に悩む話なんて全不要ではないか。
自分はこの職で良かったのか、
転職するべきではないか、と悩む人が一人もいないのは、
おかしくないだろうか。

自衛隊の前での演説シーンで、
半数は作戦参加しない、なんてリアルがあっても良かったのではないだろうか。

そういうリアルな人のリアルな反応こそが、
そこに人がいる、ということだと思う。

一旦は逃げたけど、再び闘う覚悟を決めた人や、
家族を優先させて帰った人や、
この機を利用して悪いことをする人を、
描くべきではなかったか。

災害現場での秩序や無秩序を描くことが、
311の総括なのではないだろうか。

実際、レイプや報道陣の横暴や火事場泥棒の話は、
ネットで沢山広まった。
車のなかで宿泊したのは、レイプを避けるためだと聞く。
生々しい避難生活で進む群像劇があっても良かったのでは。
たとえば被災した消防士(職場もやられ、連絡も取れない状態で、
避難生活をサポートする)がそこにいるとか。

凝固剤をつくることが作戦のメインになるのなら、
業績不良で潰れる寸前の化学プラントが活躍するとか。

オール日本が災害に闘うのなら、
日本は政府ではなく、民間であるべきだ。
その代表は誰か、という人選をしてから、
群像劇を組むべきではなかったか。

シンゴジラは、どこかで政府を舞台にする、
いわば政治劇に腹を決めたかもだ。
しかし、政治劇こそ、人間が出るジャンルじゃないかなあ。
もっと悪いやつがいるべきだし、
もっと無能なやつがいるべきだ。

どうして全員がハイスペックなのか。
脚本家は、組織で働いたことがないからではないか。
現実の組織はハイスペックなのは3割しかいなくて、
残りのぼんくらを使って、現実的に対処していくことでしかないはずだ。

アニメに出てくる軍隊は何故かハイスペックで整然とした軍団だ。
それはオタク達の願望や思い込みではないかと僕は思う。
憧れが強いが故の偏見だと思う。

群像劇とは、なるべくバラバラの人を、
同じ状況に突っ込むことで成り立つと思う。

ハイスペックな人たちばかりが整然としてるのは、
群像劇として物足りない。
もっとも、その整然さこそが日本の良さだ。
それはゴールでありスタートであるべきではない。

想定内のことなら整然と動ける人たちが、
想定外の事態に際してバラバラになり、
もう一度バラバラながらも整然さを取り戻す話ならば、
僕らは日本人であることに、
誇りを持てたのにねえ。
「日本」を描くのに、アメリカという比較対象を出さなくてもいいだろう。
ラブストーリーをやりたいなら、
主人公の部署と仲の悪い部署の女が、
喧嘩しながら互いに首相を目指している、
で十分ではなかったか。



初代ゴジラのテーマは、反核という明快なものだった。
それに対比させるならば、
今回のゴジラが海洋投棄から生まれたということから、
「愚かさは、賢さで覆せる」に、
自動的になるべきだったのではないか。
ということは、
保身や面倒や無知という愚かさをもっと主人公たちに突きつけ、
知恵や勇気や取引で、それらを切り抜け、
人々が立ち上がるには、愚かさの反省必要だと、
流れを作るべきではなかったか。


さて、人間ドラマになるには、
主人公が空虚である。
主人公が充実しない問題については、
このブログで随分過去に議論した。
一言で言うと、メアリースー症候群だ。
これは書き手の無意識の中にいる、妖怪だ。
これを自覚しないとこの妖怪はいなくならない。

「自分は無能であることを人に悟られたくないので、
完璧超人でありたい。
主人公は自分のそういう願望の投影だ。
だから主人公は完璧超人である。
しかし完璧超人なのに活躍してないのは文脈的に変なので、
ただ機会がなかった設定にする。
で、機会が来て完璧超人が活躍して、オレツエーして終わり」
だ。
これは、自分の願望発露としては面白いかも知れないが、
他人が見るのはとても詰まらない。


もしシンゴジラを面白い人間ドラマだと思っている人がいるのなら、
たとえばラノベのオレツエーを見て、
作者ののび太願望に同調する人だと僕は思う。
(それに同調することと、感情移入という現象は違う。
詳しくは過去記事を)

オレツエーのテーマは、オレツエーだ。
シンゴジラのテーマは、日本ツエーではないか?


最近のテレビは日本のいいところを外人に再発見させ、
自信をなくしている日本人を、オレツエー方向に誘導させるものばかりだ。
僕はそれを気持ち悪いと思う。
お母さんの役割かと思う。
スナックのママの役割だよねそれ。
それを映画がやるべきなのか?
僕は違うと思うな。

普通の人が見せる人間らしさ、勇気を見て、
俺もやんなきゃな、と思わせるのが、
映画という感情移入だと思う。

完璧超人の仕事遂行を見て、オレツエー願望を満たすのは、
僕は幼稚だと思う。
そういえば、糞実写進撃の巨人でも、
同じことを書いたか。
posted by おおおかとしひこ at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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