この映画を見る限り、
「日本はスクラップ&ビルドでやって来た」
がテーマを一番深く語っている言葉だと思う。
さて、これはトップシーンと係り結びになっているか?
落ちの研究でもそうだった。
落ちとは、冒頭と関係してはじめて落ちるのだった。
それは、問題の解決こそがストーリーだからだ。
さて、この映画のトップシーンは。
たしか、東京湾に浮かぶボートだ。
行方不明の牧博士のものだとあとで分かるが、
この時点では、「無人で残されたボート」だ。
サスペンスか?自殺か?というオープニング。
これは勿論、その後の怪獣登場へのミスリードである。
ということは、この映画のセンタークエスチョンであり、
問題の中心は、「怪獣退治」ということになる。
あれ?
スクラップ&ビルドは?
そう。
この映画の問題点は、
センタークエスチョン「怪獣退治」と、
テーマが関係ないことになる。
(怪獣が街を破壊したのは結果論だ)
もしテーマがスクラップ&ビルドならば、
「日本にはもう建設するところがない」という問題提起から、
始めるべきだろう。
僕が「老害さえいなくなればオレツエーが出来るのに」を、
読み取った、というのは、
「怪獣が街を破壊したので、
結果的にスクラップ&ビルドのチャンスが訪れた」
という本編の事象から読み取った無意識だ。
スクラップ&ビルドをテーマにしようとしていない。
スクラップ&ビルドは、チャンスを利用しただけだ。
それは、怪獣登場から怪獣退治までの、
怪獣映画を、作者がどう利用するかしか、描いていないということだ。
従ってこの映画は、
テーマを描くことに失敗していて、
作者の無意識だけが、繕った言い訳から透けて見えているわけだ。
映像体験、アトラクションとしては素晴らしかった。
第二形態のCG臭さを除けば、
全てのCGはかなりのクオリティで、
リアルタイム進行シミュレーション体験としても、
なかなかの緊迫感だった。
糞実写進撃の失敗を払拭する、
日本のCGも大丈夫じゃないか、
と思わせた。
東京壊滅は興奮するし、在来線爆弾も最高だ。
問題は、「それになんの意味があったのか」なのだ。
幼児的な、何かを壊して興奮する面白さ以上の、
何があったのかということだ。
初代には、反核、
「人が武器を発明する限り、武器にみいられる」
というものが明確にあった。
それに匹敵するものが、
シンゴジラにはなかった。
あるとすれば、
「老害死ね、オレツエー」だ。
映画は娯楽である。
怪獣映画は、街を破壊する悪役を娯楽として楽しみ、
悪役を倒す正義を楽しむ娯楽だ。
それをはじめて映画にしたのなら、それで終わりでよいが、
我々はシンゴジラを、これまでのゴジラの新作として見ている。
それにしては、
ゴジラという物語の、
現代的解釈としては物足りないということだと思う。
いや、現代的、という点では、
オタクのオレツエーこそが、
現代的かも知れない。
だとすると、僕は現代が嫌いで、
現代を批判しようとしているのかも知れない。
2016年08月03日
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私はこの映画のテーマを現した一言は
『私は好きにした。君たちも好きにするがいい』だと感じました。
それもまたオタク的ですが
登場する人々のヒーロー性は昨今のオレツエーというよりは
昭和特撮に出てきたヒーロー性のある人々への憧憬ではないかとも思いました。
多分ここの脚本論を読んでいない方と思われます。
僕が言うテーマは限定的です。
(というか、テーマという言葉が世の中で誤解されすぎだ、
という立場です)
クマさんのそれは「作者のメッセージ」だと思います。
それもまたオタク的、というのは同意ですが。
(「テーマ」という言葉の使い方は一言では示せないので、興味があれば「まとめ」のリンクからどうぞ。長いです)
仕事+群像劇の形なので、
「プロジェクトX」的にならざるをえず、昭和的になるのは当然だとも言えます。
僕は昭和ヒーローは「改造人間ゆえに差別されるが、それでも人のために戦う」だと思っているので、
昭和ヒーローよりプロジェクトX的に見えました。
なるほど、確かに物語のテーマというよりも
「作者のメッセージ」と言われたほうがしっくり来ますね!
テーマについて、ブログの文章から勉強させて頂きます
総理大臣以下の閣僚のほとんどを失った時、主人公たちをおおったのは、俺たちどうすりゃいいんだという狼狽です。
思わず秘書を怒鳴りつけもします。
圧倒的な重責に押しつぶされそうなプレッシャーです。
>老害なくなった俺ツエエエエは、本作では見られません。
シニフィアンとシニフィエを混同しておられるようです。
「老害さえいなくなれば、オレツエーが出来るのに」は、
僕の読解したシニフィエ(意味)です。
描写としてのシニフィアン(言動など)にはありません。
自分ルールで、映画を貶す、困ったちゃんみたいだね、
庵野監督は、おおおかさんの脚本理論をお手本にして、映画作ってるわけではないし、
おおおかさんの脚本理論が、誤謬の無い究極で、必ずおもしろくなる物ってわけでもないよね、
僕の理想通りの脚本じゃないから、おもしろくないって言ってるだけじゃ、
興業成績何十億円分の、おもしろかったと思って感想書き込みしてる人たちに対して、
説得力 ゼロ なんじゃない?
僕の脚本理論からいって、これこれこういう理由で、おもしろくないんだよって書くのは、それに対応するおもしろい作品の実例とセットじゃなきゃ理解不能だよ。
「しろうと」という当たりからすると、
おそらく世の中の脚本理論にあまり触れていないかと思われます。
僕の書いてるものは、ほとんどが世に出回っているものの焼き直しで、オリジナルな部分はほとんどないですよ。
世に出回っているものの解説をしているというか。
大岡式とでも名付けたツールは独自ですが、
殆どは世の中の脚本理論をどう実践に則していくか、みたいな話のほうが多いです。
2500以上の記事を全部読め(そこでは当然面白い映画の分析をしていますが)とはいいませんので、シドフィールドの本でも、大きめの書店で立ち読みしてはいかがでしょうか。
実際のところ、脚本理論は本一冊じゃ足りない分量が必要で、
一批評記事でそこまで突っ込めないのです。
また、興行何十億だと、スマッシュヒット(大ヒットではない小ヒットのこと)だと思います。
最近の邦画にしては大健闘ですが、みんなが誉めている、
というレベルではないと考えます。
(さらに、みんなが天が動くと言っても、ほんとうは地球が動いているかも知れません。
ヒトラー出現時、ドイツ国民はみんなが誉めたのです。
勿論それが僕がただしいかどうかの保証ではない。
数の判断が正しいとは限らないゆえに、
自分で判断するべきだ、という話です)
おっしゃる通り、脚本のことは分かりません(笑い)
難しい理屈で、おもしろいかどうか判断しているわけではないので、たぶん映画を見る為の勉強はしないと思います、すいません、
自分はおもしろい映画だなと思いましたので、おおおかさんが、ダメダメな理由を色々書いているので興味をもったのです、理屈や文字だけではやはり自分には、理解でき無なさそうです、失礼しました。
このブログは、脚本を書く人の為に色々と書いていて、批評もその一貫です。
まず初心者は、映画を「脚本」と「脚本以外」に分離することすら出来ないのです。
そりゃ、書いたことも見たことも、書いたものから実際を作ったこともないでしょうから、
どこからどこまでが脚本の仕事なのか、全然分からないかも知れませんね。
僕は、批評1では、脚本以外の部分はある種の絶賛をしています。
しかし、脚本に関しては全くダメだと考えて、その次以降を書いています。
ちなみに結論だけいうと、
もっとガッツリドラマを深くするか、
中途半端なドラマを排除して、主人公なき群像劇にするべき、
だと考えます。
主人公のストーリーラインが幼稚すぎたのが、僕が耐えられない原因なので。
特撮(CG含む)シミュレーションとしては、日本最高クラスの出来で、そこに興奮するのは分かります。
でも制作費15億は少なすぎ。スタッフは安く叩かれ過ぎです。
この返信を見て、もやもやして分からなかったのが理解できる気がします、
主人公のストーリーラインに関して、
幼稚なものと、シンプルなものの違いは 何処 にあるのか?
それとも、幼稚=シンプルであり、唾棄されるものなのか?
大岡監督の考えを、教えていただければと思います。
シンプルには沢山の種類があると思います。
形式的なものでは似たように見えますが、
内実が豊かかどうかで決まると思います。
たとえば佐野研二デザインや佐藤可士和デザインは、形式的にはシンプルですが、
内実が痩せていると思います。
逆に豊かなのは、たとえばジョブスのいた頃のMacの機能的デザインかな。(今のiPadはなんか変)
うまく言葉に出来ませんが、
形式的なものからの組み合わせしか意味の空間を持たないものが前者、
残したもの以外の省略によって、そのことすら文脈に含んでいるのが後者、だと言えましょうか。
シンゴジラに話を戻すと、
平泉成のラインは、表面に出てきたシンプルな小エピソードの裏にある、
彼なりの(よくもあり悪くもある)人生が感じられました。
だから彼には人間を感じた。
脚本的には並だったけど、役者がそれを足している。
ラーメンという分かりやすいイコンもあった。
主人公のラインは、(群像劇なぶん他の映画より要素を減らさなければならない要請があるにも関わらず)
上手に人間を濃縮していない感がありました。
今そこにいる魅力的な人間ではなく、
理想的で人工的な、形式的キャラクターのような感じ。
そこに、佐野デザインのような貧相を感じます。
ちなみに、僕は少年向けや幼児向けのシンプルが、
一番難しいと思っています。
人がどのように見えるのかは、(劇中の)職務や性格によっては類型的になるし、感情を表に出さず淡々と、状況を処理判断すべきことを求められるものであればなおさらそうでしょう、
「優秀な人間」が、真面目に役割をこなそうとする行為の表面をとらえれば、形式的なキャラクターに見えるのも当然ではないでしょうか、
主人公の内面の、泥臭いやり方は、周囲のエピソードで補足し、表のストーリー上では、あえて表現を削っていますよね、
(親のコネを利用して、無茶ぶりの仕事の押し付けに関しても、周囲の複数のキャラクターに、語らせている)
ゴジラという厄災に対する、人の集団の意思決定と行動をみせる映画なのですから、個人をあまりにも深く掘り下げることは、趣旨に反することで、それは理解できる、
そこのさじ加減は、監督のカラーとしか言いようがないと思います、
主人公のストーリーラインが、幼稚なのかシンプルなのかという疑問の解消には至らなかったですが、
大岡様が、どのように感じたかは、読ませていただきました、御返答に感謝致します。
大岡さんが“主人公のストーリーラインが幼稚”と述べているのは、主人公の矢口蘭堂が、最初から最後まで“変化”しない事を言っているのであると思います。
「成長」はしているかも知れない、ただし“変化”はしていない。主人公もしくは登場人物が“変化”しない物語は、脚本の作劇上おかしいのでは無いかと…。
主人公が“変化”しないという物語はあります。ただし、この場合、この主人公の“変化しないもの=思想とか信念”に触れ、他の登場人物が“変化”する。その“変化”
を観て、観客はテーマを読み取る事になる。
結局、『シン・ゴジラ』にはどちらも無く、上記のように“変化させない”事で物語を成り立たせている場合、肯定的な「シンプル」という言葉になり、
成り立たせていない場合、否定的な「幼稚」という言葉になるのではと。
『シン・ゴジラ』の主人公矢口蘭堂はどう変化させるべきだったのか。例としてあげると、
1.二世議員矢口蘭堂は野心的な政治家で、最年少で首相になる事を目標にしていた。ゴジラの出現により、これを自分の政治的躍進の道具になりえると考え、政府内で対応の責任者に名乗り出る。
しかし、ゴジラの力を甘く見て、対応策が悉く失敗。甘い予見によってもたらされた甚大な一般市民の被害を目の当たりにして、自分の政治的野心に対して疑問を持つ。議員という立場を捨てる事と引き換えに、再度ゴジラ対策を請け負う事になる。
2.矢口蘭堂はお飾りにされているだけの二世議員で、政治に対しての情熱や責任感など持ち合わせてはいない。ゴジラが出現するが、矢口は「結局は、自分が何もしなくても、誰かがやってくれるさ」と、責任ある立場からは逃げ回る。
だが、そこで見たのは、自分よりも上の立場の人間も、同じように誰も責任をとらず、支持も出さずでいたずらに被害を拡大していく東京の姿だった。「誰かがやらなきゃいけないって事は、自分もやらなければいけない事なんだ」と気付き、ゴジラ対策に向き合う事になる。
という案を考えましたが、じゃあ、こうしたらもっと良くなったかというと疑問ではあります。ただ、テーマは炙り出せると思います。
色々な選択肢の中から、たった一つだけした監督は選べません。庵野監督は理解した上で、ドラマを排除したと思います。
私自身は、今回に限り正解では無かったかと思う所はありますが、実際に監督が選ばなかった選択肢にどんな物があったのか?その選択肢を選んだ方が良かったのはないか?と考える事は、作品を批判しているわけではないと思います。
100%全ての選択が正しい映画など、この世の中には存在しないので。
長々とお目汚ししました。
大岡さんには、私が考えた主人公の“変化”はドラマに成りうるか、判断していただければ幸いです。
宜しくお願い致します。
1も2もドラマにはなりそうです。
あとは現代性をどう取り込むかですね。
「出番が来ると思ってなかった若者が打席に立たされる」なんてきっかけが、今っぽい流れになるかもです。
>ぴんたさん
幼稚というのはシンプル性とは関係なく、
メアリースー(作者の投影する幼児的全能感)のことです。
「13の誤解」記事に短くまとめておきました。
また、形式的「優秀」な主人公には、
実写「ガッチャマン」の大鷲のケン、実写「キャシャーン」のキャシャーンがあります。
僕は彼らにもメアリースーを感じます。
作中の人物に、リアルを感じるかどうかで、
区分しているのですね、
作中の、「優秀な」人物の行為に説得力を感じないということが、
何を意味するのか?
突発的に起こる厄介で難しい事案に、「責任ある立場の」人物がどのように反応するかは、人をまとめ動かす職種で働く人にとっては(労働する人の多くが該当すると思います)興味のある所だと思います。
その判断基準は、あくまでも自分自身でしょうね、その劇中の人物の判断や行動に納得できるかどうかは、
現実では普通に、迷ったり混乱したりする場合もありますから、なおさらそうでしょう、世の中にはいろんな人がいますから、
その優秀さを認めることが出来るかどうかが、肝ですね。
PS 一般的には、メアリースーとは、2次創作の作中にでてくる原作破壊の妄想実現キャラクターですよね?
大岡様は、「優秀に見える」行動にはリアルを感じない、御都合主義のキャラクターに感じる、ということなのでしょうね。
僕はよく「イケメンが金曜の夜ナンパしセックスをする」
ことにたとえます。
優秀な人が当たり前のことをすることを見ても、
たいして面白くないと。
これを面白くするためには、古典的には、
優秀な人に弱点や欠点を与えるテクニックがあります。
しかも最も大事な場面でそれに出くわします。
シンゴジラの主人公は、一時感情的になりましたが、
それは弱点というほど物語には効いてきませんでした。
優秀な人には優秀な人なりの悩みがあるのでしょうが、
それは多くの観客には関係がない。
中間管理職の苦悩や、リーダーとして人を纏めることの難しさとかならまだ分かるけど。
また、ブレイクシュナイダーは、
「スーパーヒーローのジャンルは、
普段自分の実力を認めてもらっていないと感じている者が好む」
と書いています。
それだけ、実力があるのに正当に評価されず、
虐げられていると感じている人が多いのかも知れません。
メアリースーはご都合主義でもあります。
たとえ優秀な官僚だとしても、
絵にかいたようなアニメヒロインが交渉相手で、
かつ心が通じあうとは限りません。
ほんとの日米交渉はもっとタフでしょう。
自衛隊のシミュレーションは徹底していたのに、
このへんが急にメアリースーでした。
石原さとみがらみのストーリーラインは、何もかもご都合主義の願望に見えます。
そこが幼稚だ(全能感)と僕は思います。