2016年08月03日

恐怖という動機

ドラマや映画では、
人を動かす動機には様々なものがある。

そのなかでもメジャーな、恐怖という動機について、
考えてみよう。


恐怖は人を動かすのに便利だ。

モンスターに追われる、
崖から落ちそう、
橋の後ろの綱が切られた、
など、
アクションでは基本だろう。

アクションでなくとも、
あいつに殺される、
あいつはなに考えてるか分からないから、先に叩く、
人生がどうなるか分からない、
帰る場所がなくなる、
などは基本だろう。

口を開けた猛獣でないにせよ、
恐怖は人を動かす。
普段ならしないこともする。
普段なら越えない壁を越えることもする。

逆に、固定した日常を逸脱する行為をしたければ、
恐怖を与えればいいというわけだ。

たとえば「ノッキン・オン・ザ・ヘブンズ・ドア」
というドイツ映画では、
もう命の期限が迫った難病の男が、
死ぬまでにやりたい無茶なことをする映画だ。

エイズだからなるべく多くにうつすヤリマン、
という都市伝説もあったよね。


恐怖さえあれば、人は理性を逸脱する。
理性の逸脱には、
うっかりとか、考えが足らないとか、勘違いとか、ミスとか、
泥酔とか、忘れてたとか、聞かされてないとか、
色々なものがあるけど、
それよりも恐怖という動機のほうが、強く、説得力があるわけだ。

人を説得するのには、
理性より脅した方が行動を促せる。
暴力による恐怖は、理性より強い。



さて。

しかしながらである。

恐怖という動機は、影響力は強いが、
影響する期間はごく短い。

つまり、恐怖を人は克服することができる。
理性だったり、正義だったり、大義名分だったり、
思いの強さだったりでだ。
その克服はひとつの強いドラマになることは、論を待たないだろう。


映画には危機があるべきだ、という原則は、
映画には恐怖があるべきだ、と言い換えることもできる。
それはホラー的な恐怖とは限らないわけだ。
そしてそれは、克服や跳ね返す、力強いドラマとセットになることができる、
ということに他ならない。


何故弱虫が勇気を出してものごとを解決する話が、
みんな好きなのだろう。
恐怖とその克服という構造だからではないかな。
posted by おおおかとしひこ at 14:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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