ドラマや映画では、
人を動かす動機には様々なものがある。
そのなかでもメジャーな、恐怖という動機について、
考えてみよう。
恐怖は人を動かすのに便利だ。
モンスターに追われる、
崖から落ちそう、
橋の後ろの綱が切られた、
など、
アクションでは基本だろう。
アクションでなくとも、
あいつに殺される、
あいつはなに考えてるか分からないから、先に叩く、
人生がどうなるか分からない、
帰る場所がなくなる、
などは基本だろう。
口を開けた猛獣でないにせよ、
恐怖は人を動かす。
普段ならしないこともする。
普段なら越えない壁を越えることもする。
逆に、固定した日常を逸脱する行為をしたければ、
恐怖を与えればいいというわけだ。
たとえば「ノッキン・オン・ザ・ヘブンズ・ドア」
というドイツ映画では、
もう命の期限が迫った難病の男が、
死ぬまでにやりたい無茶なことをする映画だ。
エイズだからなるべく多くにうつすヤリマン、
という都市伝説もあったよね。
恐怖さえあれば、人は理性を逸脱する。
理性の逸脱には、
うっかりとか、考えが足らないとか、勘違いとか、ミスとか、
泥酔とか、忘れてたとか、聞かされてないとか、
色々なものがあるけど、
それよりも恐怖という動機のほうが、強く、説得力があるわけだ。
人を説得するのには、
理性より脅した方が行動を促せる。
暴力による恐怖は、理性より強い。
さて。
しかしながらである。
恐怖という動機は、影響力は強いが、
影響する期間はごく短い。
つまり、恐怖を人は克服することができる。
理性だったり、正義だったり、大義名分だったり、
思いの強さだったりでだ。
その克服はひとつの強いドラマになることは、論を待たないだろう。
映画には危機があるべきだ、という原則は、
映画には恐怖があるべきだ、と言い換えることもできる。
それはホラー的な恐怖とは限らないわけだ。
そしてそれは、克服や跳ね返す、力強いドラマとセットになることができる、
ということに他ならない。
何故弱虫が勇気を出してものごとを解決する話が、
みんな好きなのだろう。
恐怖とその克服という構造だからではないかな。
2016年08月03日
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