2016年08月04日

そこにドラマはない(シンゴジラ批評9)

コメント返しに書こうと思ったけれど、
大事なことなのでちゃんと議論したい。

シンゴジラに、僕はドラマが何一つなかったと思っている。
災害に立ち向かう集団劇があったではないか?
それは人間たちのドラマではないか?

否だ。
あれは描写であり、ドラマではない。


描写とドラマの違いは何か。

描写は、ある時間をかけて起こっていることを写すことである。
それはつまり、ドキュメントである。

ドラマはそうではない。
写っているものは同じかも知れない。
ある人があるシチュエーションで、
言ったり行動することが、一定時間写っている。

しかし、ドラマに必要なのは何か。
変化である。

状況の外面的変化は、変化のひとつだ。
たとえば、
「暑いのでアイスを食べて、体温が下がった」は、
状況の外面的変化である。
しかしこれはドラマではなく描写の範疇だ。

ドラマとは、人の内面の変化なのである。
「暑いのでアイスを食べて、鬱々とした気分が壮快になった」
は、内面の変化だから、ドラマのはしくれである。
ところが、これでもまだドラマとして完全型ではない。

ドラマとは、恒久的な内面の変化である。
たとえば、
「今日アイスを食べたことで、この夏を乗り切る決意をした」
がドラマだ。
いやいやいや、そんなわけないやん、アイスひとつで。
そう、これは無理のあるドラマである。
内面の変化に対して、外面的に起こっている描写、
「アイスを食べる」が小さすぎるからだ。
従って、
ドラマとは、内面が恒久的に変化してしまうほどの、
大事件、大問題、大活躍、大解決を描くものなのだ。

ドラマとは、変化を描く。
外面的に起こっていること、
人の言動を描写することで、
最終的に、カメラでは写すことのできない、
人の内面の恒久的な変化を意味することである。



さて、シンゴジラだ。

圧倒的な物量の、圧倒的なクオリティの、
対ゴジラシミュレーションドキュメントであった。
自衛隊はどう動くのか、官僚や内閣の動きは、
などがリアリティー溢れて練られてあり、
シミュレーションとしては良くできていた。

だが、シミュレーションドキュメントでしかなかった、
というのが僕の考えだ。

たとえば、「猪木、馬場もし闘わば」なんてのが、
昭和プロレスの時代に良く文章化された。
試合展開を迫力ある文章で描き、
勝敗予想を最後にぶちあげる。
その文章は小説か?
という問いと、同じことを僕は問うているのかも知れない。

シミュレーションドキュメントは、それの存在自体は面白い。
体験しているときも興奮する。

しかしだ。
終わったあと、「それがなんの意味があったのか」が残らない。
こういうことが想定され、こういうことが起こるだろう、
ということは分かったけど、
それがなんの意味があるの?と問われたら、何もない。
面白かったんだからいいだろ、と逆ギレするしかない。

逆に言うと、小説や映画というものは、
こういう意味が、全体から言えるのである、という意味が存在する。

相変わらずロッキーを例にとるけど、
ロッキーは
「ロートルボクサーがチャンスを得たら」
というシミュレーションドキュメントでもあるが、
それ以上にドラマである。
「チャンスのなかった男が、
自分を示すチャンスを得て、
自分を示した(最終ラウンドまで立ち、
好きな女の名を叫ぶ、一人の男であることを示した)」
というドラマを通じて、
「誇りは、取り戻せる」という意味を示している。

さて、わざと「誇りは、取り戻せる」と書いた。
シンゴジラは、「日本の誇りは、取り戻せる」と意味しているような気がしたからだ。

果たしてそうだろうか?

もしこれを意味するならば、
「日本は自信を失った」からスタートしなければならない。
勿論、省略された前提にはそれがある。
リーマンショックや311後、高齢化していく日本に、
未来はなさそうだ。
さて、それが、誇りを取り戻しただろうか?
何故?
「根回しがうまくいき、みんなが寝ずに頑張ったから」?
おかしな話だよな。

日本は自信を失った
→根回しがうまくいき、寝ずに頑張った
→災害は止まった
→ゆえに、日本は誇りを取り戻した

という話だから、
シンゴジラは誇りを取り戻した意味がある、という論理は、変だよね。
災害を解決したものの、
当の自信を失ったことへの直結的解決法ではないからだ。
(そしてシンプルな解決法はそもそもなさそうだ)

従って、
この話の意味は、この話内での、問題解決による、
内面の恒久的な変化に注目しなくてはならない。
ロッキーは自信を取り戻した。恒久的に。

シンゴジラの主人公に注目してみる。

彼は変化しただろうか。
否だ。

立場は変化した。
したっぱ官僚から、
ゴジラの可能性に気づいたことで、
巨災対の委員長になり、
ゴジラを倒す作戦を立案、成功させた。
そのことで、彼の内面は変化しただろうか?

たとえば自信を失ったところから、
誇りを取り戻しただろうか?

否だ。
通常の仕事を淡々とこなし、
コネが出来、自負が強くなった程度だ。
それは彼の内面の大きな変化ではなく、
立場の変化でしかない。

他の登場人物は?
誰もが同じだろう。

たとえば、巨災対の面々が、
才能はあるけれど疎外された問題児ばかりの集まりであったから、
彼らの成功が、偏見を除去することに役立ち、
実力主義に日本が変わり、
彼らが報われる話でもなかった。
(そういうドラマの可能性のあるセッティングであったが、
その程度の陳腐なドラマは、ゴジラを前にしては小さすぎる、
という庵野の判断は全うである)

誰が、変化した?
何から何に?
緊張して、安堵しただけじゃないか?
ゴジラ来襲前と、退治後の、大きな人々の内面の変化は?

猪木馬場シミュレーションと同じだ。
猪木も馬場も、試合の後では内面的変化はたぶんしないだろう。
時間がひとつ進むだけである。



映画は、時間をひとつ進めるだけで終わってはならない。
それを空騒ぎという。

僕は、テーマを考えるとき、
主人公が学んだことは何か、
と問いかけることがある。
分かりやすい教訓話がベストではないが、
主人公が恒久的な内面変化をするならば、
何らかの教訓を、経験から学ぶはずだからだ。

ロッキーは、
カメラの前でバカみたいにすることを、
恥ずかしがらなくなる。
それは彼の中で誇りが生まれたからだ。
バカみたいに好きな女の名を叫ぶことが、
恥ではないと学んだからである。

もちろん、ロッキーとこの主人公は違う人だ。
経歴も、立場も、目的も違う人である。
しかし、この主人公は、
この大変な経験から何か学んだか?
仲間の大切さ?(じゃあ孤立無援から物語をはじめるべき)
石原さとみのような、ライバルであり友を得ることは大事?(じゃあ優秀な人間の孤立を描くべき)
経験はしたけど、
何か学んで、物語が始まった当初から、
内面は変化していないと思う。



ドラマとは、内面の変化である。
その変化が、意味のある大切なことだ、
と思わせるのが映画であると僕は思う。
そこが、一番大事なところだと僕は考えている。

そうでなければ、映画はシミュレーションドキュメントに過ぎなくなってしまう。
シミュレーションドキュメントに意味はない。
バラエティーと同じだ。

シンゴジラは、良くできたシリアスなバラエティーだった。
マジなほこたてだ。
日本刀対拳銃みたいなものだ。
日本とゴジラどっちが勝つか?日本だった、
という壮大でリアルなバラエティーだ。
その出来は素晴らしくいい。

さて、ここまで書いて、
同様の構造の映画を思い出した。
ロサンゼルスが宇宙人に侵攻され陥落。
ロサンゼルスを奪還する、シミュレーションドキュメント映画、
「世界侵略:ロサンゼルス大決戦」である。
手持ちやステディカムを多用し、
ドキュメントテイストで良くできている。
勿論「クローバーフィールド」もあげておこう。
シンゴジラは、主観カメラ限定ではないが、
このシミュレーションドキュメント感は意識されていると思う。

この二本を見たとき、
僕は、目の前に起こっていることを総括する、知性が足りないと感じた。

凄いことが起こった。解決した。おしまい。
(クローバーフィールドに至っては解決すらしないが)
で、それになんの意味があったの?
池上さん、解説してくださいよ。
そんな風に思った。


それぞれが感じればいい、映画に答えはない、
そう主張する人もいるだろう。
そうであってもいいと思う。
ただしそれは、感じるだけの材料があった時だけだ。


シンゴジラは、嵐が来た、なんとかした、よかった、
というだけの話だ。
人々は変化しない。もとに戻るだけだ。
何でもない平和な日常こそが大事だ、というわけでもないし、
人々の為に粉骨して黒子に徹するべきだ、というわけでもない。

凄い嵐だったね、そうだったね、は出来る。
それだけしかない。


描写はドラマではない。
ドラマとは、描写を重ねた先に、
変化を経験し、
その経験の意味を暗示することを言う。


さて、感情移入についても触れておこう。

僕は誰にも感情移入出来なかった。
300人からの誰にもだ。
平泉成はいいと思ったけど、感情移入ではない。
感情移入は、好き嫌いではない。
(たとえ嫌いな人でも感情移入を起こすことは出来る)
その人の内面に、わたしが入ることである。

誰の内面にも入れなかった。
誰もが内面を表さないからである。
つまり、全員がそとづらだけで動いているのを、
傍観者の視点で延々と見させられただけだった。

つまりは、そこに内面のドラマが、ひとつもなかったということだ。

(ぎりぎりあるとすれば、
石原さとみとの心の交流だ。
僕がセカイ系だと批判したのは、
それ以外の人物の内面のドラマがないからである)



描写はドラマではない。
何かあって何かしたことを、レポートされただけだ。
だから、ドラマはこの映画になかった、と僕は結論付けている。
posted by おおおかとしひこ at 02:24| Comment(47) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
2回観た直後は余熱で無条件絶賛モードでしたが、
悶々と考えているうちにある仮説が浮かんできました。

「人工知能が映画の脚本をつくるときが来たら、
こういう映画をつくれるときが来るのではないか?」

ということです。

「現代日本に初めてゴジラが現れたらどうなるのか、
発生から解決までをシュミレートするお話」
という課題を与えて、
条件として「市民ではなく対応する政府まわりに限定する」を加え、
「恋愛、イケメン等従来のヒット方程式」をキャンセルして走らせると、
人工知能が政府の役職、権限、法律、生物学、放射性物質の知識、
ゴジラ映画とファンのツボをネット上の文献から学んで、
理論的に整備して、小説に対する新書や論文、報告書のような
このシンゴジラがある程度まではできるようになるという気がしてきました。

自衛隊の作戦行動、博士、宇宙大戦争の音楽、あとはギリ超放射熱線まで合理でいけそうかなと。

人工知能につくらせると仮定すると、
人工知能がつくれなそうなポイントが浮かんできます。
合理ではない部分です。条件入力では出力しえない表現の部分というか。

それが平泉成のぼやきとラーメンであり、徹夜のぐったりであり、
シャツ洗ってないくだりであり…ってそれくらいしか思い浮かびませんが、
人間の脳の専門分野なのかもしれないなと。

シンゴジラは「最高の物語映画」ではないにしろ、その興奮には一定の価値があり、
「金を払って2時間観る価値がある」と認めざるをえないというのが
僕の現状の結論です。

理にかなって物事が高い密度で進行していくさまは、気持ちいい。
ということだとすると、ピタゴラ装置を見るような快感なのかな、
と思いました。

もちろんあの快感に溢れた2時間に対して、無駄のない密なドラマがあったら
さらに化ける史上最高邦画が出来るような気もしています。

9秒00の走りを見たいま、観客は9秒9秒!と盛り上がればよいですが、
つくりては「くそーじゃあオレは8秒台を目指す!」とならなければならんなとも
思いました。日本では金の問題がありますが…
Posted by ほら at 2016年08月04日 03:53
ほら様コメントありがとうございます。

理屈はドラマではない、と大げさに言ってみます。
勿論、無矛盾な首尾一貫性は物語の成立要件ですが、
(破綻、無理、無茶、強引なのはだめ)
それを作ったとて、人の心は動かないと思います。

人間らしさ、ということが、人工知能の理解によって再定義されてゆく時代に入りつつありますね。


映画の中身がないことを嘆き、
ガワだけはレベルが上がったけど、
それは日本映画界内部から出来たことではないことを嘆き。
(東宝はある時期から、監督は他所から買ってくる、
という方針に舵取りをした)


そういえば、ゴジラもウルトラマンも、
60年代安保の象徴、黒船の再来と揶揄されたものです。
この国は、黒船待ちである、
とでも締めておきますか。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月04日 11:08
失礼ですがそもそも前提から間違ってるのではないですか?
シンゴジラにドラマが必要ですか?誰かの成長が必要ですか?
そういう映画を見たければ他の映画を見ればいい
シンゴジラがこれだけ絶賛されてるのは、ドラマだの成長だのはいらないって観客が判断したからだと思いますよ
Posted by あ at 2016年08月04日 11:30
あ様コメントありがとうございます。

もちろんその議論も成り立ちますよ。
絶賛?ほんとに?

「詰まらないドラマや成長物語があるなら、
いっそないほうが清々しい」なら理解できます。

僕は、ものすごい面白い人間ドラマをよこせ、と言っているのです。
そして、現状の日本映画にその力が急速に失われていることにとても危惧を感じています。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月04日 15:38
漫画家やイラストレーターの方々は絶賛してる印象です。(ツイッターを見る限り)絵を生業にする人にとってあのゴジラのビジュアルは衝撃的だったのではないでしょうか。画やビジュアルに強い関心を抱いている人たちが絶賛しているのでは。
Posted by みんと at 2016年08月04日 16:09
みんと様コメントありがとうございます。

そういう人たちは、
グエムルとか、クローバーフィールドとか、パシフィックリムとか、ギャレ版ゴジラとか、アベンジャーズなどのマーベル見てないのかなあ。
ビジュアルは既視感しかなかったですけどねえ。
「それが日本で出来た」ことは賞賛に値します。
(進撃、ガッチャマン、テラフォなどの死屍累々を見るとねえ)
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月04日 16:39
シンゴジラの姿は初代ゴジラを意識して作ったそうです。

初代ゴジラってやはり着ぐるみ的なチープ感あるじゃないですか。
だから当時の人々は頭の中でゴジラの姿を補正したと思うんですよね。
映像はしょぼいけど、
実際のゴジラはこんなもんじゃないだろうな、と。

ビジュアルがどうこうというより、かつて思い描いた「ゴジラは実際はこんなスゲエはず」が見事に映像として表現されているので感動したのかもしれないですね。子供のころの妄想が現実に現れた!みたいな。
Posted by みんと at 2016年08月04日 17:41
みんと様コメントありがとうございます。

もしその推論が正しければ、随分幼稚なリアクションだと思います。

芸術とは見立てだと僕は考えています。
着ぐるみはチープでも何でもなく、当時の最先端技術です。
(そしてそろそろロストテクノロジーになりつつあります)
当時の観客は、チープだと我慢したわけじゃなく、
スーパーリアルに見えていたはずです。

時代が下って、CGしか見たことがない人が、
着ぐるみを古くさく思うかも知れない。
でも、結局モーションキャプチャしてるから、
着ぐるみのロストテクノロジーをいかそうとしてる。
CGは、知れば知るほど高度なアニメーションに過ぎません。
実写に負ける、というのが僕の考えです。


ゴジラがリアル?
違う。
僕らの中の想像こそが一番リアルなはずです。
全ては見立てのための小道具だと考えます。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月04日 18:15
人工知能でも書ける脚本のレベルに 日本映画が達することができてなかったと言うのが日本映画業界の病理なんではありませか?
Posted by カンタベリー at 2016年08月04日 18:44
カンタベリー様コメントありがとうございます。

結果論ではそうだとも言えますが、 根はもっと深いです。
このブログではもう三年以上少しずつ書いています。

ざっくり言うと、
脚本を書ける人が少なくて、
脚本を書けない人がたくさんいて、
書けない人たちの決定が優先されることだと考えています。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月04日 21:04
大岡様
質問をさせていただいたり、いつも参考にさせていただいています。

大岡さんの『シナリオ論』を読み続けていれば「『シン・ゴジラ』にドラマは無い」という言葉は素直に受け取れますし、理解出来ます。ただ、いきなりこの「『シン・ゴジラ』批評」を読まれた方の中には反発を覚える人もいるでしょう。きっとそういうメールやコメントが沢山来ていると思います。

『シン・ゴジラ』観ました。観終わった直後は、かなりのインパクトを受けました。恐らく今後の日本の特撮映画のメルクマールになる作品になり、『シン・ゴジラ』以前と『シン・ゴジラ』以後で語られるようになると思いました。テーマパークのアトラクションのように、体験している間の浮遊感は最高で、そういう映画体験という意味での作品の完成度は素晴らしいという感想は今も変わっていません。

ただ、観終わって数日経つと、自分の心の中に、あまり何も残っていない事に気付きました。
恐らくそれは大岡さんが言われる「ドラマ」や「テーマ」が希薄だからだと思います。
登場人物の誰かに感情移入して、自分の中の葛藤を炙り出すような仕組みになっていなかったからだと思います。

ただ、それは制作側も意図して行ったのではないかと思います。通常の怪獣映画や、ディザスタームービーは、ある市井の一市民にフォーカスをあて、その人が「逃げ惑う」姿の中に感情移入をさせ、実際の事象に関しては、専門家たちが「立ち向かう」。という構図だったが、『シン・ゴジラ』は「立ち向かう」専門家にフォーカスをあてたシチュエーション劇として描いた。感情移入をさせる「ドラマ」という部分は切り捨てて。

なので、この作品「ゴジラ」という著名な題材を扱ってはいるが、実際は実験的な一発の企画物として存在し、アトラクション的な映画としては成功したのではないか。
ただし、これが当たったからと言って、フォロワー的な作品が作られれば、それらが失敗するのは目に見えるようです。
増してや、「ドラマなんて無くても良いんだ」と勘違いが発生したら目も当てられないですね。

この作品に、中途半端な人間ドラマやを入れたとして、実験的要素が成功したかどうかは判断出来ませんが、自分として、この映画限定で言えば、無くて良かったのかもと思っています。
入れることによりバランスが崩れたのかも知れないなと。

長々とすいません。一考察でした。
Posted by えいじ at 2016年08月05日 12:04
えいじ様コメントありがとうございます。

沢山のコメントはむしろ歓迎。
結局脚本だ、というのを短く言う訓練だとも思っています。
毎度は上手くいかないですが。

さて、アトラクションの中にもドラマを上手く入れ込むことは可能です。
逆に、ドラマこそがアトラクションをワクワクさせる増幅力になると思います。

下らないドラマなら却下ですが、
たとえば、ドラマとはコンフリクトである、という原則に基づき、
主人公に反対する民間の人がいる、という対立構造があっても良かったかもです。
(前首相は単なる愚か者であり、コンフリクトの相手としては微妙なので)
対立からの止揚でいけば、ヤシオリ作戦には欠点があり、
彼が黙ってやっていた作戦が合わさって、はじめてゴジラを倒せる、とか。
その対立と止揚で、官と民を代表させれば、
現代日本の批評にもなるし、個を捨てて事に当たることの尊さも描けそうです。

自衛隊シミュレーション、有事対策のシミュレーションとしては良くできていても、
官以外が物凄く適当だったのがバランスを失しているかなあと。
その対立構造の中なら、互いの主張をぶつけられるので、
内面をうまく外に出せそうかな。

そういう感じのものが物凄く上手く融合すれば、
アトラクションに芯が入ったと僕は思います。


まあ昔から庵野さんは結局は人間を描けないので、
最初から覚悟していたことではあります。
で、「専門用語で煙に巻いたな」と感じた次第。

アトラクションに振り切ること自体は是でも非でもないかも知れないけど、
僕は映画というものは人間ドラマを描くものだと思います。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月05日 13:17
本当にドラマはないのだろうか?
大杉漣総理が、覚悟を決め、だんだん頼もしくなっていくのはドラマじゃないんだろうか?
Posted by カンタベリー at 2016年08月05日 21:01
映画には描写しかない。
ショットの積み重ねがシークエンスを作り、ドラマを作る。
映画は最終的に編集によって形成される。
エイゼンシュタインがモンタージュ技法を開発した時に映画が生まれた。
残念なことにショットは脚本では表現できない。
Posted by カンタベリー at 2016年08月05日 21:28
>カンタベリーさん
>残念なことにショットは脚本では表現できない。

全くそんなことはありません。
クレショフのモンタージュ実験を、何通りかのスタイルで書いてみましょうか。

   旨そうな料理を見る男。

   旨そうな料理。
   見る男。

   湯気を立てる料理。
   …を旨そうに見る男。

○旨そうな料理
   を見る男。

脚本上で2ショットのモンタージュを暗示しています。
(ここまで小難しい言葉は使わず、
日本では2カットの切り返し、といいます)
実際、2ショットのモンタージュにするのか、
別のショットにするかは監督が決めますが、
この文脈なら2カットの切り返しが、
セッティングが楽(消えもの:料理の撮影)なので合理的でしょう。

また、全てのショットを脚本では表現できない、
ならばそうなります。
脚本は文脈を決めるものだからです。
監督は文脈からショットリストを組み立てますが、
そもそもショットで語られるものの設計図である脚本では、
ショットリストが分かりやすく暗示されているものも多いです。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月06日 10:43
>カンタベリーさん
>大杉漣総理が、覚悟を決め、だんだん頼もしくなっていくのはドラマじゃないんだろうか?

ドラマとしては小さすぎる変化です。
総理は状況に応じて、対応の仕方を受動的に変えただけで、
内面の恒久的変化に至っていません。

たとえばこのあとに、自分から先手を打ったり、
それで間違って責任を取ったり、
誰かに助けられたり、誰かを助けたりして、
様々なことを経たあと、
一人の人間として、頼もしくなり、今後もずっと頼もしくなる、
ならばドラマにおける変化だと言えます。

ドラマは小ドラマを積み重ねて、大きなうねりを描くものです。
(たとえば10から20とか)

群像劇は、どうしても登場人物が小ドラマに終わりがちなので、
大きな変化を経験する人物を絞るものです。
で、普通は主人公にフォーカスします。
僕は、主人公にうねるべき内面の変化がないことを批判しています。

勿論、これが単なるアトラクション映像であり、ドラマは不要である、
という割り切りもありえます。
僕は映画だと思って、批判しています。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月06日 10:54
一文にもならないドラマを排して
ゴジラという災害を観客の前に大写しにしたことこそが
シンゴジラの功績であり、なにより映画という媒体の本質だろう

ドラマがないだの感情移入できないだのが不満で
これだけの大嵐を見たのに「で、なんだったの? だれか解説を」と思うなら
空っぽなのは映画ではなく、あなたの内面のほう
Posted by アラ at 2016年08月07日 23:38
アラ様コメントありがとうございます。

映画の本質は大画面にとんでもないものを大写しにすることですが、
それだけでもないと考えます。
逆に言うと、それしかないのが不満です。

別に解説を求めてはいません。
批評全部をお読みください。現在11記事ございます。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月08日 10:48
大岡様の言うドラマの不在が、
シンゴジラへの批判足りえているか?

作り手がそもそも意図していないことを、
映画に描かれていない!と論評するのは滑稽ですらある。

映画を見た人々の心の叫びの大きさ・多さ、そして好意的な総評が、この映画の評価を十分に表していると思う。

シンゴジラは、大岡様の映画論とはまったく別の次元で、受け入れられている映画なのだと思う。
Posted by ぴんた at 2016年08月08日 11:16
ぴんた様コメントありがとうございます。

なんか「シンゴジラ 批評」のGoogle検索で、
この記事だけ三番手に来てますね。
一連の批評の一部だけ取り出されてもこちらは迷惑だなあ。
よろしければ過去に戻り、現在11まで書いている一連をご覧ください。

批評1では、誉めるべきところは誉めています。
しかしそれでもまだ足りないのがある、
という論調の、これは続きであり途中です。


しかし、別の次元で受け入れられているとすれば、
それは全体主義的な不気味さを感じるなあ、
というのが大まかな感想です。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月08日 11:40
シンゴジラの主人公は人間ではなく国であると感じました。
個人ではなく組織を、国を主人公としてみた場合、ゴジラ出現前と後では確実に変化が存在していると思います。

ドラマは人間だけのものじゃないともう。
無機物にだってたどった歴史を見たときにはドラマを感じるし、それは組織や国にだって言えると思う。

今回のゴジラは組織や国を主人公として見たとき、そこには確かにドラマがあると僕は感じました。
Posted by ムク at 2016年08月08日 23:29
ムク様コメントありがとうございます。

たしかに国として見ればそのように見えます。
しかし、私たちは国に果たす義務などない。
納税、教育、勤労だけです。
私たちは国奴として公務員を飼っているので、
公務員が国の為に力を尽くすのは当然。

問題は、公務員イコール国ではないということです。
私たち国民は兵役を拒否する権利が、(今のところ)あります。
それを国民総動員のように描く全体主義、
一丸となって気持ちよくなっている視野の狭さ、
多様性を認めない空気、
僕はとても嫌です。

ゴジラ教で騒いでいた若者たちは、あのあとどうなったのでしょう。
ローテーションに入ってなくて死を免れた自衛隊員は、
ラッキーと思ったでしょうか。
有事を盾に法律を改悪する奴の悪行と、それを質す正義を描けたでしょうか。
そのような多様性の齟齬の視座がないから、
国が一体に見え、気持ちいいわけです。

それが、僕には気持ち悪いです。


僕は日本という国がとても好きですが、
空気教の信者ではありません。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月09日 13:09
私はあなたの定義する「ドラマ」にそもそも共感できません。
端的に言えば個の変化、ということですが、役所はチームプレイが全て、滅私奉公なのではないでしょうか。
個人ではなく、組織が主人公。そんな組織が、グダグダとした事務手続きに悩まされる状態から、全てをぶち壊し「スクラップアンドビルド」で変わった。そして、これから更に変わっていこうとしている。これだけで十分ドラマと言えると思います。
Posted by エイシンフラッ at 2016年08月18日 23:40
エイシンフラッ様コメントありがとうございます。

その程度の小さなドラマなら、いっそなかったほうが更に清々しかったと思います。
物凄く濃いドラマか、中途半端ならなしでシミュレーションに徹するかの、どっちかだと思います。

また、僕は役所は滅私奉公だと思ってないので、そこは共感できません。

ちなみに、共感できる出来ないで話をすると、
このように主観の平行線になるので危険です。
だから映画というものは、共感ではなく感情移入という別のもの(感情移入は、共感できない人にもできる)
を使うべきだと僕は考えています。
詳しくは過去記事を参照してください。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月19日 00:27
エイシンフラッ様へ

「大岡様の主観」の問題だから、何を言っても無駄だよ、
客観的には、多くの人が評価する、面白い作品でも、

大岡監督が気に食わなければ、それはダメで不足のある作品なんだ、

庵野監督の演出や表現手法が、嫌なんだから、どうしようもない、
大岡監督の感受性に、文句をつける愚を犯すべきじゃない。
Posted by ぴんた at 2016年08月20日 07:02
人間は狭苦しい人間関係の中だけで生きているのではありません。
地域・国・自然・地球・宇宙の中で生きているものです。
そういうものを論じている文脈では
一個人の泣き笑いドラマなど「些細で余計なこと」です。

残念ながら私たちは肉体という檻から一歩も出られないので
1個人の脳や1個人の目線から外れた視点を持つのは現実には不可能ですが
時にはそこから「外れてみ」ようとするのも大事なのでは?

現実(人間社会限定ではなく、自然や地球ととらえてください)
の中では、人間的な意味での恋愛だの友情だの成長だのは存在しませんよ。
その手のドキュメンタリーでは変に擬人化してそのように翻案してるものが多いですがね。
個人的にはあまりに「人間中心的」なハリウッドナイズな映画には飽き飽きしていたので(邦画も含みます)
今回のシンゴジラは楽しかったです。
Posted by あばば at 2016年09月06日 10:19
あばば様コメントありがとうございます。

そのような感覚を、センスオブワンダーというのかも知れません。
「ツリーオブライフ」はどのように見られましたか?
Posted by おおおかとしひこ at 2016年09月06日 10:25
ものすごく面白いドラマってなんですか
Posted by たかひら at 2016年09月11日 02:47
たかひら様コメントありがとうございます。

質問の意味がわかりません。
ものすごくいい音楽ってなんですか?
言葉で伝えられるものでしょうか?

ちなみに、このブログでは、それを懸命に言葉に変換しようと努力している最中です。

ものすごくいい女ってなんですか?
ものすごく面白い人生ってなんですか?
面白いってなんですか?
ドラマってなんですか?
それらは、言葉で言えるものでしょうか?
Posted by おおおかとしひこ at 2016年09月11日 13:33
ガワだけでお金を取れるのならそれはそれでいいのでは。
Posted by うべべ at 2016年09月11日 15:06
うべべ様コメントありがとうございます。

短期的にはいいでしょうね。
その考えは、これまで映画が人類にとってどのような価値を提供し、文化足り得てきたかを無視する、
愚かな考えだと思います。
金になるから(または生活に必要だから)と木を斬り、はげ山にしてしまった、
ヨーロッパ人の愚かさと同じだと思います。
長期的な物事の見方は、短期的な物事の見方と異なると考えます。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年09月11日 15:18
作る人も見る人もみんながみんな人間ドラマがあってテーマがあって感情移入できる映画が理想なわけじゃないからなぁ・・・
Posted by うべべ at 2016年09月11日 19:28
うべべ様コメントありがとうございます。

全くその通りです。
ですが、そのような人をも巻き込み、感情移入させ、
テーマに唸らせるのが本物の映画だと思います。

たとえばゴダールの「気狂いピエロ」などはどのように感じましたか?
Posted by おおおかとしひこ at 2016年09月11日 19:45
自分の理想の映画像と比較してシンゴジラを批評していると、シンゴジラを楽しんで見ている客のことが見えなくなるのでは。

私は客がテーマもドラマもない(とされる)シンゴジラを見にいってるのはなぜか?客は何を見て、何に金を払ってるのか?に興味がある。
無理強いはできないがそういう分析・批評を読みたい。

長期的に物事を見るのは大事だが、あまりのんびりされると私も客も邦画業界も寿命が尽きている可能性がある。
Posted by うべべ at 2016年09月11日 21:30
うべべ様コメントありがとうございます。

オタク層が金を払っていると思います。
批評1に戻りますが、怪獣と破壊と作戦シミュレーションのディテールは素晴らしい出来。男は全員燃える出来。
そして権威に身を浸すこと、アスカラングレーとの疑似恋愛(メアリースー的願望)。
ラノベで実践されていることが、フォトリアリスティックに表現された、
十分に金のかかった(ゴジラと庵野いう看板で出来た)、
殆ど初の見世物であったからだと考えます。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年09月12日 01:24
自分の書き込みを読み返すとわけが分からんですな。我ながら恥ずかしい。書き込まなきゃよかったな・・・

この書き込みを含めて私の書き込みはすべて削除してくれて結構です。むしろ削除して欲しい。

手間を取らせてしまって申し訳ありません。もう書き込まないようにします。

ちなみに私は気狂いピエロは見てません。

大岡先生のご活躍を祈っております。わけの分からない書き込みに返信いただきありがとうございました。それでは失礼します。
Posted by うべべ at 2016年09月12日 01:38
うべべさん、大丈夫です。PNだから被害はないです。
次回は別PNで書きこんでもばれません。
俺なんか本名でやってるので、最初にPNにしとけばどれだけ楽だったか。

ということで、「気狂いピエロ」を例に出したのは、
カウンターカルチャーの例だからです。
カルチャーへの不信を示す運動としてゴダールは祭り上げられた。
日本では80年代に不条理ブームや、90年代にサブカルブームがありました。
でもそれは結局、カルチャーを豊かにしたでしょうか?

歴史は、「熱狂するけど、そのうち飽きて去って行って、不毛の地が残される」ことを語っている気がしますね。

僕は、カルチャーサイドから、映画を眺めています。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年09月12日 16:34
大岡先生は論理で話す人のようなので、感情ではなく論理で話すのがいいのでしょうな。私は論理的に話せないので、噛み合えそうにないけども。

私はメインのカルチャーの他にサブカルチャーやカウンターカルチャーもあるほうが豊かだとは思うし、それぞれのカルチャーにそれぞれのものの見方があると思う。

しかし、大岡先生のブログはメインのカルチャーに沿って映画を批評しているようなので、その批評に対して、サブカルチャー的な見方から批評をしろ、カウンターカルチャー的な見方から批評をしろ、というのはナンセンスなのでしょうな。

私が間違ってたんでしょうなぁ。
メインから外れているものに、メインの見方を当てはめて批評しているのがナンセンスに思えて、思わずコメントしてしまったけども。

はやくオーソドックスないい映画を作ってください。今の邦画は・・・
Posted by うべべ at 2016年09月12日 23:44
なんでナショナルジオグラフィックやディスカバリーチャンネルが商売になるのかって言ったら人間には自然や災害の描写や経過それ自体にドラマを感じる感性があるからじゃないですかね。
で、シンゴジラはそのドキュメンタリー性を極限まで(それこそ描写にドラマを感じれるほど)高めたからこそ評価が高いんだと思います。
でも過剰な演出やドラマに慣れた普段映画や本を読み慣れた人ほどそこに物足りなさを感じるんじゃないかと、濃い味付けに慣れちゃって旨味を感じれない、みたいな

僕も正直シンゴジラはイマイチだったんですけど(だいたい大岡さんと同じ理由です)、周りがとても熱くなってるのを見てちょっと自分の感性が強い刺激を求めすぎて鈍化してるな、と思いました。
Posted by 神崎 at 2016年09月14日 00:07
>うべべさん
ゴジラじゃなくて、オリジナル怪獣ものだったら別に絶賛するのは吝かではないのです。

ゴジラはメインカルチャーであるべきであり、サブカルチャーやカウンターカルチャーであるべきではないと思います。
それは東宝映画の看板はメインかサブか、というべき論にもなりますが。
日本の看板背負ってすかし投げかよ、という怒りが僕にはあるわけです。

オーソドックスでいい映画を撮りたくて頑張っておりますが、力足らずで申し訳ありません。2020年までは足掻きます。
その先邦画があるかどうか不明ですが。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年09月14日 00:31
神崎様コメントありがとうございます。

人間ドラマといったときに何を想像するかで「ドラマはいる/いらない」が決まるような気がします。
東宝でかかってる予告のレベルなら、そんな糞みたいな人間ドラマはひとつもいらない。

過剰な油まみれのトンコツは僕はもうお腹一杯で、
ビリーワイルダーみたいな、全うな話が見たいです。
僕はそういうものを人間ドラマだと考えています。
「笑う大学」あたりまでの三谷幸喜はそうだったんですが。

昨今は「ヒキが強い」「癖の強い○○ワールド」みたいなものしか、製作することが出来ないようです。
それは、我々脚本家監督が求めているのではなく、
売り手が「そうじゃないと売れないとハナから思っている」からです。

美味しい普通のきつねうどんが一番売れていて、
結果儲かり、トンコツやカレーなどの変わり種に冒険する余裕がある、
そういう食堂が僕は理想で、
僕はどちらかというときつねうどんの職人だと思っているので。
(天狗とか妖怪とかはカレーの煙幕に過ぎない)

でもきつねうどんを売る手段が、今一番ないんじゃないですかね。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年09月14日 00:41
大岡様 唯一無二のきつねうどん屋さんであり続けてください。
Posted by すーざん at 2016年09月14日 16:45
すーざん様コメントありがとうございます。

レシピは日々言葉にしているつもりなので、
自分でもつくってみて、自分風味を足してってください。

Posted by おおおかとしひこ at 2016年09月14日 22:16
なるほど、シンゴジラの演出はドラマ性が足りず、
映画としての魅力に欠けると論じたいのですね?

ふむふむ、面白い論点ですね。
たしかに特に主人公の内面描写が、石原さとみとのやり取りや、苛立って水を渡される例の「まずは君が落ち着け」ぐらいしか見当たらないので、
そういった主張が生まれるのも納得です。


ただ、私はこれは予定された演出だと思いますよ?
庵野さんがドラマが描けないとか、ないからどーこーとか、そもそもあるかないかって次元の話ではないと考えます。

私は、シンゴジラという作品は、「ドラマを表に極力出さないことが、最大のドラマ演出だった」と思っています。
主人公たちが、官僚などの“滅私奉公”を信条とする配役だったからこそ、そこにドラマを挟むことができなかった、
いやむしろ、ドラマを積極的に描写しないことこそが、その人の理念、生き方、ひいてはドラマを描いていたと感じました。
官僚や自衛隊など、自分を捨てて国民に死力を尽くすという脚本上、人情劇の茶々入れを挟めなかったのです。むしろ、描かないからこそ、その滅私の、主人公たちの人となりが浮き彫りになっているのではないでしょうか?


私も冒頭から観始めたときに、大岡さんと同じようなことも感じたんですね。形式ばった会議が多くて、主人公の日常も一切描かれず、はたして人間ドラマはこの後来るのか…?来ないなら邦画ゴジラってよりハリウッドだな(笑)って。

ですが、その見方は、
「総理の人間味」、「主人公の苛立ち&君が落ち着け」、
そして、極めつけは「主人公による自衛隊への激励演説」

これらによって覆されました。
これはドラマがないんじゃなくて、表から見えないようにあえて隠す演出をしてるんだなって。その滅私精神をもってしても、溢れてきて画面に出てしまった人情が、上記のような数少ないシーンだったのだと思います。


中でも、最終戦闘直前の自衛隊への激励シーンは、個人的にウルっとくるものがありました。
私は医療界に携わろうと志しているものです。
劇中では、自衛隊とは国民のために全力を尽くすものとして、私生活を捨て死地に赴くことを美として描かれます。
あくまで自衛隊の話で、私達には関係ないですが、これは病院にも通ずるものです。

実は、院内というのは、日本の中で一番汚い所なんですね(笑)
常に院内感染のリスクにさらされています。いつ死んでもおかしくないと言っても過言ではありません。
そんな場所でいつも感染リスクに晒されながら、私生活を削って働く医療者にも自衛隊に通ずる滅私の美徳を感じ、
主人公の演説によって、「だから頑張ってくれ!君たち現場に日本の将来は託されてるんだ!」と後押しされた気がして、涙腺が緩みました。
(この激励は、何もそういった職業に限りません。一般サラリーマンにしても時間外労働が100h/月を越えれば立派な鬱病リスク。死が控えています。)


描かれるはずのものを描かないこと。

これも立派なドラマ演出だと思います。
大事なのは、劇中人物がどういった人情展開を繰り広げるかじゃなくて、
それを観て私達がどう感じるか、だと考えます。


大岡さんが何も感じなかったのなら、もちろんそこにドラマは生まれなかったのだろうし、
少なくとも私は、隠されたドラマに心動かされたので、
私の中ではドラマは確かにありました。
形式ばったシステムの中でもがき苦しみながらも、ほとんど私情(ドラマ)を漏らすことなく、全力を尽くす描写に感銘を受けました。


感じ方は人それぞれでいいと思います。

冒頭に戻りますが、シンゴジラ批判、ドラマがないと主張、ないからシンゴジは映画足り得ていない。
主張は、大いに結構だと思います。そんな見方もあるのかぁ〜と呼んでいて面白かったです。

が、だからといって、そこに、映画を観た人たちの感情をも全否定するような表現は、見ていて不愉快極まりないです。

映画のあり方に捉われ過ぎているのではないでしょうか?

素人の呟きと、流してもらえると幸いです。
Posted by たちゅまる at 2016年12月03日 20:49
たちゅまる様コメントありがとうございます。

この一連の文章は、ただの映画批評ではなく、
脚本とはどうあるべきかについて論じている、
脚本論の一部として議論されています。
したがって、理想の脚本に対して、
足りない部分は何かについて語るのが基本となっております。

映画批評だけなら、もっと言いたいことはたくさんある。


少し難しい話をします。
映画というのは感情移入が必要です。
これは三人称形式の物語特有のものかも知れません。
感情移入というものは、
どんな人でも、たとえその人が嫌いだろうが、
立場が違うかろうが出来るべきです。
そうでなければ、多くの人が観るものではないからです。

感情移入に似たものに共感があります。
これは、自分と近い人を好きになることです。

感情移入は共感を利用することもありますが、
両者は違う方法論です。

ところで、たちゅまるさんは、
医療従事者ということもあり、
滅私奉公こそ仕事なのかも知れません。
つまり、彼らの滅私奉公に、
共感して感情移入したと考えられます。

逆に僕は、滅私奉公だけではダメな、
個性そのものを生かし、個性が売れる、
自分にしか出来ない仕事をしてるので、
滅私奉公糞だと本心では思っています。

ということで、感情移入には至らなかったのです。

感情移入とは、その生き方に反対する人をすら、
感情移入させることです。
そのためにドラマがあるのです。


これは多くの脚本初心者が間違うところで、
自分の共感だけで感情移入を書いてしまうと、
自分の近いクラスタしか巻き込めない、
狭い話になってしまうのです。


シンゴジラに関して言えば、
ドラマが省略されていることで、
滅私奉公が人のデフォルトになったようです。
しかし僕はそのデフォルトではない人間なので、
その滅私奉公こそ素晴らしいとは思えませんでした。
(たとえば徹夜で仕事をする様は、
あんなきれいなものではないでしょう。
もっと沈没する人々の汚さを描かないと)
庵野の描く人間はすべて記号にしか過ぎません。
○○という記号が存在します、
以下それで進めて下さい、です。
映画脚本というものは、
その○○を前提にする血肉や、
説得力や、出来うるなら感情移入を、
ドラマで描くことをさします。


シンゴジラが受けた背景には、
滅私奉公で働く人が多かった(共感した)、
ということに過ぎません。
それは、日本人的でありますね。
外国で受けなかったのは、滅私奉公がデフォルトじゃないからだと、
僕は考えています。


この評論は何故かGoogle先生に評価されていて、
このような脚本論の文脈で読まずに、
ただの映画批評として普段ここに来ない人に読まれることが多く、
ぶっちゃけ迷惑しております。
しかし、脚本というものを考えるきっかけになれば、
という思いで、このように対応している次第です。

シンゴジラは共感レベルの脚本。
感情移入レベルの技術が足りてない。
専門用語でいえば、こういうことです。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年12月04日 11:41
やっと理解できたように思います。

つまり、大岡さんの説く脚本の在り方論に、シンゴジラは即していないという主張だったのですね。

なるほどおっしゃる通りですね(笑)
大岡さんのお言葉を借りると、シンゴジは共感を促す構造ではあっても、普段から滅私奉公がデフォルトでない(そのドラマを経験したことのない)人たちをも含んだ全視聴者に対して、
脚本の在り方を踏襲していないばっかりに、感情移入させることを放棄した構造になっていると。

難しいテーマ!
全視聴者への感情移入促進ってなると、まさに映画・脚本の究極の「崇高な」課題ですね。
厳しいご指摘です。でもたしかに映画の「高み」を目指すには、監督・脚本家の方々には是非とも目指して欲しいものですね。

庵野さんも、公開当時に「世界向けではなく、日本向けに作った映画」と仰ってたらしくて、私は「いやいや、日本向けはあくまで前提で、それは単に世界には受けないだろうことへの言い訳じゃん」とは思ってました。
が、おっしゃる通り脚本家たるもの、全視聴者から受け入れられるものを目指して撮影するのがベストだったかもしれません……
ただ、そこまでできちゃってると、もはや「シン庵野」(神)と呼ばなくちゃですけど(笑)個人的には、しばらくは人間のままでいてもらって色んな作品を世に出してもらいたいです。


「映画批評として、普段ここに来ない人に読まれることが多く〜」
すみませんでした。私もシンゴジ系ワードで辿って来たクチです(笑)申し訳ないです。
ご迷惑かけたのに、丁寧なご返信ありがとうございました。
でもそう仰らないで温かい目で見てもらいたいです。
検索機能、便利ですもんね…この記事タイトルを見て、映画批評を求めてここを訪れる人達に責任はないですし、
本記事のこの論調を見て、「映画批評ではなく脚本一般論であり、シンゴジの話が本質ではない」と察しろというのは、少々困難かなぁ?と感じます。
Posted by たちゅまる at 2016年12月04日 12:31
たちゅまる様コメントありがとうございます。

出来るだけ多くの人に、
脚本というものがどういうものかわかってほしい、
出来るなら面白い脚本が増えてほしい、
そういう思いでここをやってます。
読めばわかりますが、ものすごく長い本をコツコツ書いてる感じ。


映画批評もその一環なんですが、
シンゴジラだけ反響が異常で、
それは検索エンジンのせいではないかと考えています。
(意外と○○批評ってズバリとタイトルつけてないのかね)
バズリはこうやって生まれるのかという。
人工知能に対して言葉狩り対策しなければならぬとは。

ということで、映画批評と表記せずに、
脚本批評とでも題すれば、多少は誤解が減るかも知れませんね。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年12月04日 13:16
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