2016年08月04日

全体主義(シンゴジラ批評10)

どうしてシンゴジラに人間ドラマがないか、言葉になった。
あれは全体主義だ。

僕は行列に並ばないタイプの人間だ。
全社忘年会にも出ない。盆踊りも踊らない。
三割の働いてないほうの蟻かも知れない。
それは、全体主義を認めていないからだ。

全体主義に熱狂しているなんて、この国はやばいのではないか。
(そこまでヒットしていないようだから、
警戒レベルではないだろうが)
サッカー日本代表への熱狂と、同じキナ臭さを感じる。
熱しやすく冷めやすい民族だから、
すぐ戻るかも知れないが。
posted by おおおかとしひこ at 12:04| Comment(10) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
全体主義じゃなくて集団主義では?
日本人はチームで動いて初めて力を発揮するタイプというだけであって、全体主義とは違うのでは?

会社の忘年会は顔つなぎのためで仕事の一環ですよ。
Posted by カンタベリー at 2016年08月05日 00:33
カンタベリー様コメントありがとうございます。

集団主義と全体主義の違いが良く分からないので、教えてください。

また、「皆さんそうなさっています」は、僕は全体主義的暴力だと考えます。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月05日 12:22
全体主義では個人は公私なく全てが全体に従属します。
集団主義は公私があります。所属する集団も複数です。
世界的には個人がなんらかの集団に所属し、それらの集団がさらに結びついて社会を構成する集団主義的な社会の方が多いです。
いきのこっていくため、仕事を回してもらうためにはその方が有利なことは明らかですから。
同業者の形成するギルドもそうです
Posted by カンタベリー at 2016年08月05日 21:19
>カンタベリーさん

全体主義と集団主義の定義を、それに乗っかるとして。

主人公は公私があり、所属する集団は複数だったか?
群像劇の人々が、公私があり、所属する集団は複数だったか?

誰もがブラック企業のように、宗教団体のように、
「自分の職務をひとつの目的の為に不眠不休する」しかなかったと思います。
勿論オフを描かなくても構いませんが。

自衛隊の前で演説するシーン、
誰も任務を辞退しなかったのに僕は恐怖を感じました。
放射能戦闘前提で、
未婚や子供のいない兵士は返すのが常識かと。

アニメなら気にならなかったかも。モブだから。
でも実写では、エキストラの一人一人に人生があるはず、
というところまで見えてくるんだよなあ。

日本社会が全体主義か集団主義か、という議論ではなく、
僕はあの映画が全体主義的だと思った、ということ。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月06日 11:06
古い記事へのコメント失礼します。

私はシン・ゴジラの評判に乗って映画館にいった、映画論、脚本論、その他もの作りの基礎知識など一切無い、ミーハーな一市井の人間です。勉強不足の素人ではありますが、一言物申したい。

私は素直にシン・ゴジラを楽しんだ派です。ブログ主さんの意見には全く賛同できません。

中心的な主張は「ドラマ=登場人物による葛藤の克服、変化」がない⇒駄作、と言う論理のようですが、しかしてブログ主さんの提案する、シン・ゴジラに入れうることのできたドラマなるものは、ことごとくがチープなものばかり。教科書的、手垢のつききったドラマと感じました。今時の鑑賞者ははそんなものが見たいのではない。そんなものは飽き飽きするほどそこら中に転がっている、感動の押し付け「ドラマ」に任せていればいい。

このオールジャパン映画の制作者たちの叡知が、ブログ主さんがおっしゃる程度の安いドラマを思い付けず、それにより作品の完成度を上げうる可能性に思い至らなかったと本気で思ってるのであれば、とても浅いと思います。あの映画はどう見ても、いつもの日本映画の安い「ドラマ」は全て切っている作品だというのは明らかでしょう。

確かに、「政治家」にしてはあり得ないほど清廉に、愚直に国民の公器であろうとする主人公格の矢口や、日常には到底居そうもない石原さとみ扮するカヨコなど
人物造形は如何かと思うところもありますが、そこは視聴者の想像で補えばよい。

私は高速テロップが読めず、事前知識もなかったため、最初は矢口を理想に燃える若き官僚と思い込んでいましたし、竹之内扮する赤坂は将来の事務次官候補のような高級官僚と思っていました。そのように捉えても違和感無くストーリーに入れたのです。これは何を意味するか。

すなわち、主人公の背景や思想はおろか、現在の肩書き、役としての根幹すら「見たときのイメージ」任せでも良く、個の設定が無意味に近いということです。劇中の行動だけが重要。

ここから、私が感じる、庵野監督の考えるドラマとは、人間が起こした実際の行動による世界(社会)への干渉とその変化なのではと思いました。人が変わるのが普通のドラマで、世界が変わるのが庵野式。そう言えばセカイ系などと言う言葉もありましたね。

人間は社会(世界)に強く縛られており、所詮一人の人間が劇的な「ドラマ」を経て何かしら成長したとて、人の営みを規定する社会の根本はそう容易く変わりません。これは現実に生きる全ての人が本能的に理解しています。一人一人が変われば社会は変わるなんて簡単にいっても、社会は変わらないし、変えられない。その一人一人の力の無力さにうちひしがれているのが現代の日本人。

だからこそ、誠実な人間達の行動が、やがて世界を巻き込み変えていくというストーリーがドラマ足りえるのだと思います。一人一人の個(パーソナリティ=そいつは誰か)よりも、実際に何を成したか、それによりどれだけ社会に影響を与えられたか、それが重要。だって現実世界はそうだから。

ちっぽけな人一人の成長など、圧倒的な社会の力の前では無力さ、それが平均的日本人の感傷だと思います。だからそこに訴える庵野ドラマがウケるのではないでしょうか。

これは、個を全く大事にしない全体主義的発想であり、その点でのブログ主さんの指摘は正鵠を射ている。その好き嫌いはさておいても、日本はやはりどうしようもなく全体主義の国、空気の支配する国であることは否めないのではないでしょうか。
Posted by ハルチカ at 2016年08月07日 22:44
連投すみません。全体主義について少しだけ。

私は生まれが広島のため、幼少期はいわゆる平和第一主義の教育を受けており、素朴に「人の命は一つしかない大切なものなのだから、オクニなどのために捨ててはいけない」と考えていました。

しかし、年を取って思うのは、本当に怖いのは「無為なる死」ではないかと言うことです。

私個人は今回のシン・ゴジラは本当に怖かった。一方ブログ主さんの言う死地に向かう自衛隊員への激励は全く怖くなかった。カミカゼと同じ、オクニのための死地への特攻であるのにこれは何故か。簡単ですね。「覚悟」があるかないか。

理不尽にも突然現れた暴力により、理由もなく命を奪われるのは本当に恐怖ですが、人のため、誰かのため、大切な人のための死なら、「覚悟」があれば受け止められる。理由があれば死ねる。それがヒトなのだと思います。哺乳動物の進化とはそう言うものだったのでしょう。

何せヒトの命などいとも容易く失なわれた時代であり、そこに地球よりも重いような価値が付くはずもないからです。価値の低い一人の命で社会(群れ)が救われるのなら、その命の価値が非常に高くなる。進化とは「あり得る選択肢の中で、もっとも成功確率の高い選択肢が生き残っていく」プロセスの繰り返しですから、一つ一つの命の最適化は際限なく進んできたでしょう。

だから全体主義はある意味人間の本性に根差したものだと思います。人は一人では生きていけない。本当の意味での個人主義=孤立は普通の人には受け止められ無いと思います。
Posted by ハルチカ at 2016年08月07日 23:12
ハルチカ様コメントありがとうございます。

全体主義が生物的本能だとしても、
死を強制することは暴力です。
孤立(村八分)の恐怖を盾にするやり口もです。

皆が一体となることが気持ちいいことは否定しませんが、
それをそうではない人に強制するのは、
個人の自由にもとる行為だと思います。

「世界侵略:ロサンゼルス決戦」という映画をご覧になるといいと思います。
国のために闘う気持ちよさについて描かれています。
ラストは「USA! USA!」コールが沸き上がってもいいぐらい。

日本とアメリカは、そうやって殺しあいましたね。
(上級国民レベルでは経済的事情があったはずで、
それを戦争という形で経済を回した:特需と植民地狙い)

僕は「世界侵略」を見たときも、
「外敵の為に一致団結することが、気持ちいい」と気づきました。
これは簡単にプロバガンダに利用できると。
今、日本は自信を失っています。
コミュニティも崩れ、孤立の危険はたくさんある。
セカイ系は、そんな人たちの意識の現れ。
国(世界)か、友達しかいない人の繋がり。
そういう状況で、
皆が一丸となってゴジラを殺戮することに気持ちいい、
という意識があるのだとしたら、
戦争まであと一歩でしょうね。
ヒトラーが出てくれば一瞬だ。

全体主義は戦争を招くからいけないのではないです。
最近ですが、蟻の集団のなかで働いていない3割の蟻についての、
役割が解明された実験がありました。
7割しか働かないほうが群れとして有利であるという、
生物的選択(進化)の結果です。

10割の自衛隊が死地に向かうと、
この話を知らない人が見て脳がしびれるのでしょう。
とても愚かなことだと考えます。


勿論、日本という国は間違った平等
(皆が均質であることは平等ではなく、
皆に同等の権利があることが平等)の国でもあるので、
それでええやん、と考えることも可能です。

僕は、それはあかん、と考えています。
僕の気持ち悪さの正体はこんな感じです。


ドラマの話については、また別に書きます。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月08日 10:19
ハルチカ様コメントありがとうございます。

一個人の変化が重要なのではありません。
社会の大きな変革を描くのがそもそもドラマのダイナミズムです。
「一個人が変わった結果、その価値を発見し、
社会も変わって行く」というのが本当のドラマです。
(当然ですが、見たことのない新しいドラマを作り出すことが、
我々の仕事であるべきです。手垢のついたドラマなど言語道断)

ハルチカさんは、わりとダメな方のドラマを想像されているようです。

>誠実な人間達の行動が、やがて世界を巻き込み変えていくというストーリー

え?そんなストーリーでしたか?
変わったのは「事故や火山だろうという認識」→「巨大生物だから殺さなきゃ」→「軍隊で」→「核使用か」という、
状況認識による対応の変化です。

一人の誠実な男が、誰もが反対するなか真実を貫いたことで、
それが正しかったことで、人々が認め、自らの考えを変えていき、社会が変革する、
という話ではなかったと思います。

勿論主人公は早目にゴジラの存在を予見しましたが、
それは反対されることもなくすぐに状況が変わっていきます。
人々が変わったのは、平時から非日常へという意識であり、
主人公の行動の結果ではありません。

僕がやや怖いのは、そのような強烈な外圧がない限り、
変わろうとしない日本社会です。
黒船にたとえましたが、次は移民という黒船かも知れません。
(イギリスのEU脱退が移民拒否という流れが、
さらにその先を行っていますね)
今のところ、東京オリンピックという黒船が、
変革の起爆剤かも知れませんが。


>誠実な人間達の行動が、やがて世界を巻き込み変えていくというストーリー
であれば、確かにその話は面白そうですが、
結局人々が動いたのは、主人公の行動に巻き込まれたからではなく、
ゴジラという外圧でした。

その話になりそうなものを、批評11に一応プロットの切れ端のようなもので示してみました。
いずれにせよ、全体主義的な高揚感を煽ることになりそうで、
その客観性を保てるかどうかは、
この先を作らないと不明ですが。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月08日 10:44
全体主義だから失敗を嫌う。
失敗を嫌うから最初の一人が生まれない。
最初の一人が生まれないから全体主義から脱却出来ない。
この車輪の回転をサポートするように、 「1億総中流」や「公的な義務教育」などのギアが存在している。

今こそリスクを取れる個人が集まる時だ。
Posted by 全ては感情移入 at 2016年08月14日 03:33
全ては感情移入様コメントありがとうございます。

僕は常にリスクを取ろうとする個人なのですが、
なかなか集めることが難しいですね。
映画はやはり集団でつくるものなので。

プロデューサー、スポンサー(個人の太い客)さえつかまれば、何か出来るんだけどなあ。

最初の個人が生まれても、雪崩をうってそっちに流れるかは分かりません。
大多数は楽な方を選ぶんじゃないかなあ、と僕は冷めています。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月14日 11:35
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