僕が人の集団について考えるとき、
この法則を出すことにしている。
人は、絶対に同じになることはない。
あれだけ名前を書けと注意しても、
あれだけパンツを忘れるなと言っても、
人は完全には同じになることはない。
それは、指導者からすればイライラするかも知れないが、
人の集団として均一でないことは、
むしろ自然なのだ。
均一でないことは、すなわち多様性があることである。
もし均一だったら、間違った方向へ行けば全滅する。
均一でないことは、間違いの発見、
第三の方向の発見をもたらすことがある。
均一でないことは効率が悪いのではない。
短期的に見れば効率が悪いが、長期的に見れば非効率だ。
だから均一に揃っている集団のダンスなどは、
見世物として金になる。
人は均一でないから、均一な集団を見ると、美を感じる。
しかしそれは、ただの娯楽であることを忘れてはならない。
日本の建築物は、昔からひとつだけ違うむきの瓦を乗せる、
など、わざと完璧にしない建築を好んだという。
完成したらあとは崩れるだけだから、完成一歩前が美しい、
などとよく説明される。
均一でないことこそ、真実なのである、と建築家は思っていたのかも知れない。
僕はトヨタ自動車がとても嫌いだ。
中日思想なる自分中心主義も嫌いなのだが、
彼らの理想は「全ての道にトヨタ車が走っていること」らしい。
(15年くらい前に聞いた話なので、今は違うかも知れない)
他社のクルマの存在も許さない、
自転車やバイクも許さない、
そんな均一化社会は不自然だ。
おれがそのなかに入ってパンツを忘れてやる。
これらの観察は、人の集団をどう描くか、
ということに直結する。
それぞれが違う事情を持ちながら、
同じ目的に突き進む姿は尊いが、
それは、異なる人々だから尊いのであり、
同じ人々が同じ目的に進むのは、
トヨタ自動車みたいである。
どこかでパンツを忘れる奴が必ず出てくることを、
忘れてはならない。
(それを、トリックスターと物語論では呼んだりする)
昨日立ち読みした本で、
「渡り鳥がV字に編隊を組む理由」が説明されていて面白かった。
飛行機は翼の先に、返しのようなものがついている。
これは翼端の空気の渦流を低減させるためにあるそうだ。
水平翼は、翼の上と下で空気の速度が違う(浮力の原因)。
翼端でもそうだが、翼のない部分とある部分の間で乱流になり、
渦流が発生し、これが空気抵抗になる。
あの返しのようなもの(名前失念)は、それを低減させるそうだ。
燃料費を3-5%ほど節約出来るんだって。へえ。
で、渡り鳥がV字になる理由。
鳥の翼の両端に、この渦流が残っていて、
後ろの鳥はそれを利用して楽をするらしい。
スリップストリームの渦流版だそうな。
自動的に、V字が一番楽なんだと。へえ。へえ。
(先頭は疲れるので、時々交代するらしい)
均一化には、このような合理的理由(大抵は内部の理由ではなく、
外圧、この場合空気の乱流)があるものである。
それは楽を無意識に選ぶことでもある。
そして、均一化自体は物語ではない。
ある平衡状態から、別の平衡状態への移行が、物語である。
それは外圧がきっかけとしても、
一人のトリックスターによって均一化が解除され、
別の平衡状態へ導かれることになるだろう。
つまり社会を変えるのは、パンツを忘れる奴だ。
僕がズートピアを絶賛するのは、
そのような社会的多様性がテーマであるからだ。
ナンバー1からオンリー1へ、オンリー1から多様性へ、
価値の流れは変わっている気がするが、
孤立の不安から、群れから違うものを叩いて安心するという、
不寛容の嵐が広がっている気がする。
集団に属する気持ち良さと引き換えだから、なかなか客観的になれないのかも知れない。
てんぐ探偵2では、妖怪「不寛容」を描きたいと思っている。
倒し方は、まだ分からない。
知性が鍵のような気がしている。
2016年08月08日
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私ならこのように描くとか、自分の好みはこのような演出だという、たぐいの批評なら頷いて読んでいたと思うのだが、
大岡様のものさしでもって、不足がありまだまだだとの批判を見て、ぶちきれてしまった、
クリエイターとして期待しています、汚い言葉は無視して下さい、すいませんでした。