ターミネーター1、2について。
(質問箱にオリジナルの質問があります。
長いので転載を諦めました)
まず言えることは、
「ターミネーター」という映画のジャンルは、
ホラーだということです。
それは面白ポイントが、「追う/逃げる」で構成されているからです。
先行する名作「13日の金曜日」「ジョーズ」「激突!」
あたりと同じジャンルだと思います。
追ってくる相手は謎で不気味でモンスターあり、
逃げる主人公は知恵と工夫でやっつける。
前半戦は逃げる話、後半戦はやっつける話、
という大まかな構成を取ると。
ターミネーターのオリジナリティーは、
ホラーというジャンルを、タイムパラドクス的なSFの文脈にしたことです。
「追っかけてくるモンスターは何がいいかな。
ゾンビ的なロボットにしよう」という発想で終わることなく、
「研究所から脱走した自我を持ったロボット」
(ほぼブレードランナーがこれですが)ではなく、
「未来から歴史の原因を消しに来たロボット」にしたところが、
最もオリジナルな部分です。
これによって何が生まれるかというと、
「未来のことが伏線になる」という、
通常の時間軸と逆になる構造です。
ここがターミネーターの、ホラー的でない、一番面白いところです。
(そもそもホラーを作ろうとしていたら、
瓢箪から駒だったのかどうかは知りません)
1では、カイルリースの持っているポラロイド写真が、
どこで撮られたものか、
未来の悲惨な出来事を、「アイノウ」というラスト。
2では、ジャッジメントデイそのもの。
ターミネーターの面白さは、
ホラー的な面白さ、追っかけと、
タイムパラドクス的な面白さの二つの柱がある、
ということです。
さて、ここまでの部分は脚本の構造以前の、
「アイデアの面白さ」なので、偶然待ちです。
これを思いついたときに、ベストの形の脚本が書けるかどうか、
というところが、脚本家の勝負ポイントかな。
1の主役は、構造上サラです。ホラーの追われる人役。
2の主役は、サラでもジョンでもなく、
僕はターミネーター(シュワルツェネッガー)だと思います。
1で悪役だったターミネーターが主役になったから、
2は名作だと考えます。
2でターミネーターを主役だと考えると、
これは「感情を持たないロボットが、感情を持つ」という話が本質的だということです。
勿論センタークエスチョンはジャッジメントデイの阻止、
具体的にはT1000を殺し、チップを消滅させることです。
しかしそのミッションで描かれる本質的なことは、
実はターミネーターの変化なのです。
(ラストのサラのナレーションはなんと言っていたか。
可能性がある、ロボットが感情を持ったように、であったはず。
※ナレーターは必ずしも主人公でなくてもよい)
さて、ここで変化というものを、どのように捉えるかです。
変化のきっかけ、行動の全て、事件の解決、変化の全て、
を主人公一人でやる必要はないと思います。
人間というのは人間関係のなかで生きているのだから、
きっかけは他人から与えられたものであったり、
過程で誰かの助けを借りたり、
解決をチームでやったり、
変化のなにかが他人の影響であってもいいと思います。
ただし、「自分の意思で、そのようにする」という決意のもとで。
メアリースーは、のび太症候群とも言えます。
何から何までお膳立てしてくれないかなあ、というキャラクター。
泥を被らない人がずるいと思われるように、
メアリースーはずるい(ラノベ風に言うならチート)と思われる、
というだけの話。
全部自分でやるのは真逆。
どれかは他人の力を借りてもいいと思います。
リアリティーに応じていくらでもパターンはあると考えます。
たとえばターミネーター1のサラは女なので、
直接戦闘に向きません。
だけど闘う意思を見せて実際そうしたり、
ラスト、プレス機のスイッチを押したのはサラ。
自分の決断で、やれる範囲で、自分で責任を取っています。
(当時の時代背景は男女平等の黎明期で、
闘う女ということ自体が新しかった)
これがカイルに丸投げしたり、スイッチだけ押す係だったら、なんやこの女、
となったでしょう。
2のターミネーターも同じこと。
T1000とのバトルやそれまでの旅があったからこそ、
「今なら人間の気持ちが分かる」という変化が、
彼のなかで起こったわけです。
与えられたボディーガード役だけだったら、変化は起こらなかったでしょう。
変化とは、自分がしたことに影響を受ける、ということでもあります。
ただし、ややご都合主義的な受動性はあります。
サラが何故カイルからあんなに惚れられているのか。
サラも何故カイルに惚れるのか。
ラブストーリー要素が弱く、ご都合主義的です。
もうちょっと心のやり取りがあっても良かったのに。
ターミネーターの変化が主骨格としても、
サラやジョン視点からはじめているので、
それが主骨格と気づきにくいこと。
(続編のあり方としては、
本来サラが主人公になるべきだったとは思う)
さて、視点や感情移入という点では、
元々キャメロンは上手な人ではない気がします。
1のサラには感情移入出来ないでしょう。
2の中盤までのターミネーターにもです。
けれど後半のバトルがあまりにも出来が良いので、
私たちは勝手にサラやターミネーターを応援しています。
それは脚本的な感情移入ではなく、
ハラハラによる吊り橋効果ではないでしょうか。
そういえばシンゴジラも、
吊り橋効果で感情移入してるだけなんじゃないかなあ。
これは脚本には不可能なところで、
監督の快感原則の技によるのではないでしょうか。
そういえば大昔は、
音楽に合わせて細かくカット割りをするだけで、
MTV的演出にすぎない、とベテランはバカにして、
若者はその気持ちよさに興奮してましたね。
たとえばロッキー4のトレーニングモンタージュが、分かりやすい代表です。
フラッシュでドラコが写し出されるのが、
滅茶苦茶カッコイイんだよなあ…。
90年代後半は、泣けそうな場面に泣けそうな音楽をかけるのが流行しましたね。
で。
脚本的だけ取り出すと、実はターミネーターシリーズは、
それほど完成度の高いものではないと考えます。
しかし、それを補ってあまりあるほどの、
未来のことが伏線になるというオリジナルな構造が、
このシリーズを唯一無二のものにしていると思います。
僕は減点法より加点法主義なので、オールタイムベストに入れており。
2016年08月11日
この記事へのトラックバック
ターミネーターはタイトルロールなのに
なんで脚本上の主人公じゃないんだろうか…
と思ってたら、主人公でしたね!たしかに!
理屈で考えすぎてました。
キャメロンはバトルやスペクタクルやりたいから、
それを正当に見てもらうために
ストーリーがんばってる感じもしてきます。
庵野さん宮崎さんもそのケがありそうな。
ロッキー4のモンタージュは最高です!
回答ありがとうございました。