感情移入の誤解: not 好き but 他人なのに自分
感情移入について、誤解している。
自分と近い年齢や性や職業でないと、感情移入しづらかったり、
自分の好きなタイプでないと感情移入しづらかったり、
自分のわかる範囲が多くないと感情移入しづらかったりするのは、
感情移入しづらい話なのではない。
単に、話の出来が悪いだけなのだ。
ほんとうの感情移入は、
自分と近くない年齢にも、性にも、職業にも、好きでないタイプの人間にも、
謎が多い人物にも起こる。
むしろ、そのようにしなければ、マスで見る映画というものの存在意義がない。
マーケティングと称し、
これは誰向けの話であるとか、こういう人が見る映画、というのが分類されて久しい。
それは映画を知らない人の、誤ったマーケティングだ。
誰向けの話なんてない。
話は、すべての人に向けて語られるべきである。
マーケティングは、理解できる範囲のことしか理解できない。
つまり、
「感情移入は、近い人や好きな人に起こり、
遠い人や嫌いな人を、なるべく出さないようにすれば、
ターゲットを確実にすくい取れるのではないか」
という浅はかな誤解がそこにあるということだ。
じゃあ何かい。
俺はおっさんで、監督である主人公にしか感情移入できないのか?
少女漫画の主人公に感情移入したり、
工場で働く移民に感情移入しないのか?
そんなことはないことぐらい、この誤解は馬鹿げている。
じゃあすべての外国映画にも、キリスト教徒の映画にも、
イスラム教徒の映画にも感情移入できないことになる。
しかし、この信仰(思い込み)を崩すことは難しい。
ということで、
わざと、自分から遠い職業、年齢、性、国籍の人を、主人公に選んでみることをお勧めする。
初めて会う人と、あなたはどうやって仲良くなるかを考えよう。
何か話をして、「共通点を見つける」ことをするのではないか。
感情移入は、まさにこうやって起こるのだ。
全然違う人なのに、自分と同じ共通点を見つけること。
それは、外面的なことではなく、内面的なことであるほうがよい。
外面的なこと、たとえば趣味が一緒とか、背が低い、とかではないほうがいい。
「コンプレックスを持っている」とか、
「過去に悔いがある」とか、
「環境に恵まれていない」などの、
抽象度の高い、内面的なものがあると良いだろう。
なぜなら、そのほうが、「誰にでも当てはまる」からである。
感情移入とは、
自分と違う人間におこる。
全く違う人間のはずなのに、自分と共通点を見つけることで。
さあ、その内面はどこでわかるのがいいだろう。
できるだけ早めがいい。後半じゃ遅い。中盤でも遅い。序盤だろう。
冒頭に主人公のトラウマを示す映画が多いのは、できるだけ早く主人公を知ってもらおう、
という脚本家の配慮であることが多いわけだ。
あるターゲットを設定し、そのターゲットに近い人間像を設定することは、
一見合理的であるようだが実は愚かである。
なぜなら、そのターゲット以外の興味を損なうからだ。
たとえば「働く女性」をターゲットにした、働く女の映画を考える。
たいてい、働く女によくある「あるある」をいくつか描いて、感情移入させようとする。
彼氏か仕事か、いい男はなぜ現れないのか、生理前の辛さなどについてだ。
それは、俺たち男からは「無関係だ」と思わせるリスクがあることに注意されたい。
俺らは関係ないのだな、と思った瞬間、せっかく感情移入して、お客になる可能性があっても、
それだけで去ってゆくものだ。
この例では、「あるある」を感情移入の道具にしようとしていた。
これが誤りだ。
「あるある」で得られるのは、共感だ。
共感と感情移入は違う。
僕は猫好きではないので、猫好きの気持ちに共感できない。
しかし、「飼っていた猫の死」の悲しみはわかる。
それは、僕も犬を飼っていて、死んだことがあるからだ。
動物を飼っていない人でも、近親者の死に立ち会ったり、
あるいは架空のキャラが死ぬ悲しみを知っている人は、皆理解できるだろう。
100%理解しなくていい。その気持ちが察せられる程度で構わないと思う。
共感は、100%のシンクロが目標かもしれない。「あるある、わかるわかる」だ。
感情移入は違う。
「この人と全く立場もエピソードも違うが、この人の気持ちはわかる。
なぜなら、私も具体的には全然違うけど、似たような経験があるからだ」だ。
感情移入をターゲットに近くしようと誤解する人は、
つまりは、「全く違う人に感情移入させる技術」も経験もないのである。
映画はすべての人に向けられた娯楽だ。
僕らは男だから、ラブストーリーは見ないのか。
いや、好きな人に振り向いてもらえないせつなさは、誰でもわかるのではないか。
それを、女の共感しか必要としないだめな映画があるから、
「女向けだから見なくていい」などとセクト化が進むのだ。
セクト化は、長期的にはターゲットの細分化をしすぎ、パイが少なくなっていくだけだろう。
(細分化しすぎた雑誌は潰れて行く論理)
誰にでもわかる、誰にでも共感できる人は、マイルドで無難な人だけだろう。
事件前のベッキーのような。
それは、はげしく面白い映画という物語を語るに十分ではない。
尖って、変で、特徴がありすぎる人を主人公に選んだほうが、
話に盛り上がりも起伏もひねりも加えられるというものだ。
もちろんそんなヘンテコな人に、共感なぞ出来るはずがない。
しかし、感情移入させればいいのである。
感情移入は、人間に与えられた、物語の魔法のひとつかもしれない。
どんな変な物語でも、どんな変な人物でも、
感情移入させることは可能である。
そしてその人物と共にする旅の続きを知ることが、楽しみになったとき、
我々は物語に夢中になっている、ということなのである。
感情移入は、好きな人にしか起こらないわけではない。
嫌いな人にも起こすことが可能だ。
最初は嫌いで、自分と全然違う人。
なのに、いつの間にか自分と同じように彼(彼女)の行く末が心配になり、
彼(彼女)の喜びや悲しみを我がことのように思うこと。
それが感情移入である。
(最初から好きな人にも、もちろん感情移入は起こる)
「感情移入しやすいよう、なるべく特徴も過去もない人物にしよう」も間違いだ。
「好かれたい」どころか、「嫌われたくない」という思いが強いのだろう。
本当の感情移入を知らないか、出来ないやつのたわごとである。
女は美人にこしたことはないが、美人だからといって感情移入できるかはわからない。
よくできたブスな女の話の方が、工夫のない美人の話より、感情移入できる。
つまり感情移入は、外面ではなく、内面に起こるのである。
(映画では、カメラで写すことしか出来ないため、その人の内面を「見る」ことは不可能だ。
だから、その人をあるシチュエーションに放り込む。
その人がすること、いうこと、判断することなどから、
その人の内面を少しずつ「知って」ゆくのである)
2016年08月12日
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シリーズの続き、期待してます!!
書くのは結構骨が折れます。
進みは一日一記事ペースになると思いますので、
ゆっくりお付き合いください。
今回のテーマ、実際にシナリオを書く上で、最も大切というか、根幹になる部分ですね。
シナリオを勉強し始めた当初、師匠に27歳のOLが主人公のプロットを持っていくと「この話は、主人公を57歳の無職のおじさんに変えても成立するかい?」と言われました。
初めは言われている意味が解りませんでした。だって、27歳のOLの苦悩を書いたストーリーなので、性別や職業を変えたら成立する訳ないと。
何本かストーリーを考えて、上記のようにそのストーリーが誰を主人公にしても成立するか考えるようにしたら、その意味が解って来ました。
設定によってしか成立しない話は、その設定に近しい人間しか感情移入出来ない。誰を主人公にしても成立する話は、例え観る人が主人公の境遇とは全く違う人でも、感情移入出来るという事を師匠は教えようとしていたと気付きました。それを理解するまで数年かかりましたが…。
なかなか、物語の面白さとは、設定の面白さだという呪縛を払拭するのは大変ですよね。
ただ、最近は制作陣の中にも、設定の面白さのみを追及する人も多くなっているのかな…という疑問もありますね。
興味深い話をありがとうございました。
そこのところが分かるには、
設定と物語を分離する能力が必要でしょうね。
昨今のプロデューサーや素人は、
設定を脚本家に入力すると、勝手に完成原稿になると想像しているようですね。
人工知能に小説を書かせようなんてものも、そういう思い込みではないかなあ。
それは、書く経験が圧倒的にないからだと思います。
逆に沢山書く人しかわかんねえのかもね。