2016年08月13日

13の誤解2: 伏線の誤解

伏線の誤解:  not 隠し but 強烈なAをBとして使う


伏線である。
みんな伏線が大好きだ。
それは何故だろう。

僕は驚くからだと思う。

観客としての人間の感情には色々ある。
喜怒哀楽なんて4つじゃ全然足りなくて、
感動とか、ありがたいとか、恐怖とか、
ワクワクとか、ハラハラとか、驚きとかだ。

ホラーとかのモンスターが出てきてビックリさせる驚きはおいといて、
物語中にある驚きは、
どんでん返しと伏線だろう。

伏線は、どんでん返しの一種だと考えると分かりやすいと思う。

どんでん返しとは、
まずAだと思わせておいて、実はBだったと分かることである。
Aだったとすっかり思っていたら、
実はBだったのだ、ということに、
衝撃を受け、騙されたと思い、
成程そういうことだったのか、良くできてるなあと感心するのである。

この過程において、Aをミスリードという。

すべての観客に、一旦Aだと信じこませるわけだ。
しかし、これは嘘であることを除けば、
いつものストーリーを楽しませることと、なんら変わりはない。

本当か嘘かの違いだけで、
ある世界を説明し、設定を説明し、
そこで起こっていることに夢中にさせる、
という、
いつものストーリーテリングと変わらないことに注意されたい。

あとは、これをひっくり返すだけだ。
どんでん返しは、ミスリードどころか、リードの上手い人じゃないと成功しない。
Aに夢中にさせ、かつBに驚かせなければならないからだ。

さて、AとBは、なるべく異なれば異なるほど衝撃は大きい。
そうだったのか!と驚くだろう。
これがコツである。



伏線に関する誤解は、
「Aを目立たせなくすること」だ。
それは伏線ではない。

伏線Aを、のちのちAとして再利用するのは、
伏線とその回収ではない。
ただの前ふりである。

「雨が降るかも知れないよ」
と前ふって、のちに雨が降るのは、
伏線ではない。
これを伏線だと間違えるから、
のちのち起こることがあからさまにばれないように、
Aを隠しておかなければ、ということになるのである。

上手な伏線は、強烈なAを前ふっておいて、
それを全然違うBにどんでん返して使うとよい。

同じく、「雨が降るかも知れないよ」と前ふる例を使えば、
のちのち雷雲から雷が落ちる、ということに使ったりすればいい、
ということである。

(実際、「雨が降るかも知れない」は、
名作「ターミネーター」のラスト、ガソリンスタンドのおじさんが、
黒雲を見て言った台詞「嵐が来るよ」と似たようなことだ。
ターミネーターは、それをどう受けたか。
そこに、これまでの全ての伏線=人類と機械の戦争があり、
人類は負けそうであり、主人公は機械を倒す救世主を生む母になる予定であること、
また、それは避けられない運命であること、
の回収「知ってるわ」で受ける。
これは、全ての伏線をひとつにまとめ、闘う覚悟を決める、
という壮絶なラストなのだ。
映画史に残る名ラストは、未来という伏線を、
現在の決意で回収したという構造になっているのである)


うまい伏線は、
ばれないような前ふりを、あとあと天丼するものではない。
そういう小さく目立たないものは、あとになればなるほど忘れる。
あそこにあったろ、と記憶力のいい人は言うけれど、
そんなもの大多数の普通の観客は忘れるものだ。

観客は、強烈なもの、印象的なものは覚えている。
それを利用するのである。

強烈ななにかAを印象づけておいて、
それを全く別のBとして使うのが、効果的だ。
伏線は一種のどんでん返し、というのはそういう意味である。


なお、伏線の教科書として僕がオススメするのは、
ビリー・ワイルダーの「情婦」である
(邦題が詰まらなそうなのが最悪。傑作である)。
法廷劇だ。ラストのどんでんもいいけれど、
伏線の小技が効きまくっている。
研究した記事(伏線の研究)もあるので、参照のこと。
posted by おおおかとしひこ at 13:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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