2016年08月14日

13の誤解3: 変化の誤解

変化の誤解:  not 一回 but 連続変化の末の、元に戻らない変化


主人公は変化する。
それは人間だからである。
その変化は何のためにするのか。

変化を、成長と誤解しないこと。
映画で成長などする必要など、そもそもない。
成長を描くのは難しいから、下手に成長を描くと、
テンプレ的成長しか描けずに陳腐になってしまう。
どっかで見た、有り体な成長にだ。

映画は、成長を描くのではない。変化を描く。
出世したり、豪邸を建てたり、世間でブレイクしたり、
ヒーローとして認められたり、
大学に合格したりする必要はない。
それは外面的なことにすぎない。

考え方が変わったり、出来ないことが出来るようになったり、
広い目を持つようになったり、
ネガティブなことを言わなくなったりなどの、
内面的なことが変わることが変化だ。


変化は、一回で起こるものではない。
それは、一回の変化なら、嘘かも知れないし、
すぐ元に戻る変化かも知れないからだ。

宿題をやらない子が怒られて、
宿題をやったからといって、
彼は宿題をやるように変化したのだ、などと誰も思わない。

彼が宿題は自分のためにやるのである、
と心から深く納得して、
変化の意思を持ち、
それでもサボる誘惑に負け続け、
他の人たちと自分を比較したり、
過去の人たちと自分を比較したり、
集中したのに邪魔されてイライラしたり、
自分で自分の環境を整えて、
宿題をやる喜びに気づき、
この先にあることを実感として理解し、
それでもサボることに抗えず、
それでもコツコツやっていくようになるまで、
変化というのは完了しないものだ。


人は、そもそも変化が嫌なのだ、ということを理解しよう。

一回怒られて宿題をしても、
すぐに元に戻るに決まっている。

宿題をやらない子が宿題をやるようになるには、
何段階もの変化の経験が必要だ。
それは試行錯誤も含んだり、
自分だけではない他の要素も必要だろう。

あなたは宿題をやらない子がやるようになるストーリーを書けるだろうか。
書けるとしたら、人間の変化が、どのように行われるかを、
ある程度知っているかもしれない。



映画において、どうして主人公(たち)は変化するのだろう?

変化しなければならないのか?
変化しないストーリーは面白くないのだろうか?

否。

どんなに面白いストーリーでも、主人公が変化しないはずがない。
何故なら、主人公が変化しないのなら、
「所詮その程度の体験」だったからである。

映画で扱うストーリー、主人公の体験とは、
それが深く、人格にまで及ぶほどの、
ものすごい体験なのである。

スケールではない。深さがだ。

勿論、洗脳して終わりというバッドエンドも存在する。
(例:時計仕掛けのオレンジ)
普通はハッピーエンドだから、
良く人は変わる。

ダメなやつがいいやつになる。
欠点があるが、それを隠さずに克服しようとする。
トラウマを乗り越え、過去と決別する。
嫌なやつが、いいやつになる。

それを成長ととらえていてはダメだ。
成長は自然にするようなイメージがある。

映画における変化は、もっと人為的な苦しみを伴うものである。
何故なら、人は変わることを嫌がるからだ。



映画とは、事件の解決である。
起こった事件が終われば終わりだ。
しかし、その事件に主人公が関わり、
解決の旅の途中で、自分の変化が起こるほどの、
沢山の経験をするのである。
だからその経験に「意味がある」のだ。

変化は一段階では起こらない。
ということは、
長い旅(客観的に長くなくても、主観的に長いこともある)
の果てに至るまで、何段階もの心の移り変わりがあるということだ。

勿論、心を写すことは出来ないから、
私たち観客は、彼(彼女)の言動や反応、行動や判断などから、
それを汲み取るしかない。

人は影響しあう。他人に影響を受けることもあれば、
自分に影響を受けることもあるし、
自分に影響を受けた他人に影響されることもある。
そうやって少しずつ変化しあって行く。

それが元に戻らないほど、最初とは違う人生観をへたとき
その人は変わった、と言われるだろう。


子供が一回怒られて宿題をするのは変化ではない。
元に戻るからだ。
映画というのは、主人公が内面的に変わらなければならないほどの、
深い、大変な体験を扱う。
それが一発で変化などするはずがない。



「落下する夕方」テンプレというものを僕は名付けた。
この映画に出てくる陳腐なストーリーテンプレである。
「何でもない私の人生に現れたアイツが、
私の人生をしっちゃかめっちゃかにかきまわして、
凄い冒険旅行に連れていってくれた。
私は人生を変えるため、一歩踏み出して物語を終える」
というものだ。
これは一人称視点から見ればあり得るかも知れないが、
単なるのび太症候群の話だ。
一人称視点小説ならば説得力あるように書けるかもだが、
三人称視点では、
グズな女が派手な女に90分以上手を引っ張られ続け、
ラストシーンで一回だけ変化して終わりという構成になる。
そのグズな女が、チームの中のミソッカスなら分かるが、
主人公らしい。
何もしない主人公が、都合良くラスト一回宿題をやって終わり、
という、大変納得のいかない話である。

メアリースーの項で詳しく議論するが、
慣れない人が物語を書くと、
ついこのテンプレで書いてしまい、
「主人公は変化した」と主張することが大変多い。

それは怒られて宿題をやる子レベルの変化だ。
また元に戻る可能性が高い。
じゃ、今までの冒険はその程度の価値にしか過ぎないのだ。


ラストに宿題をする子は、成長したように見える。
しかし我々は、彼が「宿題をやる覚悟を決めた」ことを知っている。
宿題をすることはその外面的な表れにすぎない。
映画とは、内面を外面的なことで描くものだ。
内面的に変化したことを、絵で示すものだ。

最後に一歩踏み出す絵は、絵としては変化を示せている。
しかし、たった一回の変化では、説得力がないのである。

もし宿題をやらない子が、色々と変化を経て、
ついには覚悟を決める話が作れたとしたら、
宿題をする絵で表現しなくとも、
彼の変化を表現できるはずだ。

外面の絵は、内面の例に過ぎないのである。


人は、一回の変化ではすぐに元に戻る。
変化を嫌がるのが人間だからだ。
人の変化は、何段階もの、元に戻れない旅の末に起こる。
人はそうやって少しずつ変わって、
戻らない決意をする。
変化することの方が良いと、旅の末に思ったからである。

その内面の旅路を、外面的な問題解決のストーリーに絡めて出来るかどうかが、
シナリオを書けるか、ということだと思う。



(なお、短編なら一段階の変化もあり得る。
二時間もかけて一段階変化しか描けないやつは、
短編でいいということである。
長編とは、短編に描けないような、複雑で長い行程を扱うのである)

さて、変化というのは、
大抵真逆になる。
全く出来ない→すすんでする、などのようにだ。
両極端にすればするほど振り幅が大きく、
内面のダイナミックさに繋がるからである。

両極端に振れる作品に、「恋愛小説家」がある。
参考にされたい。
変化は少しずつだ。しかし加速していき、反転するのである。
ちなみに昨日見た「ミッドナイト・ラン」も変化というものを実に上手く描いているのでオススメだ。
posted by おおおかとしひこ at 18:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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