カタルシスの誤解: not 破壊やアクション but 内面の生まれ変わりを絵で示す
カタルシスが、物語には必要だ。
スッキリするからだ。
爽快、気持ちいいこと、スリル。
それらはカタルシスだろうか。
ちょっと違う。
じゃあ映画ならではの凄いシーンだろうか。
爆発、アクション、都市の破壊。
そういうシーンは確かにカタルシスはあるように思える。
じゃあそんなアクションを入れれば、
映画はカタルシスが生まれるのか。
否だ。
それは、カタルシスを誤解しているのだ。
区別のために、上であげたものを、
「絵的カタルシス」と呼ぶことにする。
絵的カタルシスは、その絵を見れば自動的にカタルシスを感じるものだ。
まるでパブロフの犬だ。
条件反射的なものなのかも知れない。
しかし、これらの絵的カタルシスがない映画にも、
カタルシスはある。
じゃあ、カタルシスって何だろう。
Google先生によれば、
舞台の上の出来事(特に悲劇)を見ることによってひきおこされる情緒の経験が、日ごろ心の中に鬱積(うっせき)している同種の情緒を解放し、それにより快感を得ること。浄化。
ギリシア katharsis
だそうな。
日頃の鬱積と同種のものを見て、
解放し、快感を得ること。
つまりそれは、感情移入によるものであることが分かる。
さあ、解放ということの意味が分かりにくいね。
以下は僕の考えだ。
簡単なハッピーエンドを考えよう。
主人公には欠点がある。
ストーリーを解決する上で、
自分の欠点を改善しなければならない。
どうにかして、自分の欠点を改善でき、
事件も解決した、
という単純な話。
もし同種の欠点を持つ人がいれば、
あるいはそれが分かる人がいれば、
感情移入する。
主人公に感情移入するわけだから、
後半は主人公視点の一人称になる。
つまり、主人公と一体化するわけだ。
ラスト、主人公が欠点を克服するのを見ると、
まるで自分も欠点を克服したような気になる。
そこで、カタルシスが起こるわけだ。
具体例で言えば、
勇気のない内気な男が、好きな女に告白する話を考えよう。
内気を克服し、色んな工夫の末、
彼女と付き合えてハッピーエンドだとしよう。
このテンプレを上手く書けたら
(なかなかリアルに上手く書けないが)、
殆どの人にカタルシスをもたらすだろう。
内気でない人は殆どいないからである。
つまり殆どの人が、
彼が内気を克服するさまを、
まるで自分のことのように感じ、
彼が生まれ変わった気分を味わい、成功を手にすることを、
疑似体験する、
つまり、自分が生まれ変わったように感じるのである。
これがカタルシスの正体だと僕は思う。
勿論、欠点の克服だけがカタルシスではない。
主人公が生まれ変わることを、
自分が生まれ変わったように感じること。
鬱積したネガティブな感情を、
ポジティブに変化させる過程で生まれる、
劇的な高揚感。
これがカタルシスの正体だと僕は考えている。
これでGoogle先生のいう、
鬱積とか、解放とか、快感の意味が分かるのではないだろうか。
ところで、僕はハッピーエンドの例を出したが、
元は悲劇(バッドエンド)である。
悲劇においては、
ネガティブなものが、ポジティブに変われなかったことで、
破滅していく様を描くものだ。
それに同情し、自分も破滅を味わう(感情移入)ことで、
観客は涙を流す。
自分の中のネガティブと同じだからである。
涙を流す行為は、浄化作用があると言われる。
さんざん泣くと、ケロリと元気になるということだ。
悲劇のほうがより単純な原理でカタルシスが起こるわけだ。
ハッピーエンドの場合も、バッドエンドの場合も、
ネガティブな感情への感情移入がそのはじまりであることに、
変わりはないわけである。
カタルシスには、二種類ある。
まず主人公のネガティブなことへの感情移入。
それがバッドエンドになることでの同情の涙。
もうひとつは、
それがハッピーエンドに転化することでの、
幸福への生まれ変わり。
どちらでもいいが、
僕はハッピーエンドこそ映画の真骨頂だと考えるので、
以下ハッピーエンドの話をする。
さて、主人公の内面はカメラで写せないのであった。
じゃあ何故彼が生まれ変わったことが分かるのか。
「彼が生まれ変わったことが分かる絵で示す」から分かるのだ。
内気な男の話では、最後に彼女の手を引く絵かも知れないし、
お姫様抱っこをする絵かも知れないし、キスする絵かも知れない。
いずれにせよ、それが明確に分かる絵で、話に合ってればベストだ。
ここで絵的カタルシスの話に戻る。
つまり、
主人公の生まれ変わりというカタルシスの瞬間と、
それを示す絵が、絵的カタルシスの瞬間であると、
最高にカタルシスを感じるわけなのだ。
ロッキーが分かりやすい。
彼は生まれ変わった。
自分は好きな女の名を叫ぶ、男だと自分を証明したわけだ。
それが「エイドリアーン!」と両手をあげて叫ぶ、
絵的カタルシスとして表現されるのである。
それがラストシーンであるからこそ、
ロッキーは最高のハッピーエンドムービーのひとつなのだと、
僕は思うのである。
多くの映画は、
絵的カタルシスをクライマックスに持ってくる。
何故だろう。
それは、事件が解決するカタルシスを表現するためだ。
しかしそれだけだと、とても表面的なカタルシスになる。
その時、主人公のカタルシスと一致すると、
最高のカタルシスになる。
少なくとも近くにあれば、それが盛り上がりになるわけである。
爆発やアクションなどの派手な絵的カタルシスでない作品もある。
ウッディアレンの「マッチポイント」では、
テニスのネットに引っ掛かった瞬間のアップの絵が、
絵的カタルシスになるように計算されている。
安い予算で素晴らしい効果である。
あるいは悲劇の例で「レスラー」をあげておこう。
彼の必殺技、トップロープからのロングホーンという、
絵的カタルシスがラストシーンだ。
同じ監督の同工異曲に「ブラックスワン」がある。
殆ど同じ話だが、絵的カタルシスは前者のほうが上だと思う。
悲劇のカタルシスに興味があるなら、両者を比較研究してみるとよい。
(そう言えばこの監督、アーレン・ダロノフスキーは、
ラストカットに、真俯瞰か真アオリが好きっぽいね。
「レクイエムフォードリーム」のラストも真俯瞰だった。
真俯瞰や真アオリは、絵的に特別だから、絵的カタルシスになりやすいわけだ。
脚本論とは少しずれるけど)
カタルシスは、絵的カタルシスだけのことではない。
主人公のカタルシスと絵的カタルシスが一致することで、
本当の映画的カタルシスが生まれるのである。
カタルシスを絵的カタルシスだけだと誤解していると、
主人公のカタルシスのことに気づけないだろう。
2016年08月16日
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