世界設定の誤解: not 妄想の箱庭 but 物語に必要
さて世界設定だ。
初心者はたいてい、
性格設定と世界設定だけで満足して終わってしまう。
そこからストーリーを書けずに終わるのが9割だろう。
そのうち半分以上が、
書きはじめたはいいが、途中で挫折して終わるに違いない。
どうして性格設定と世界設定をしたがるのだろう。
アニメの設定資料集の影響だろうか。
あれは複数スタッフの情報共有の道具に過ぎないが、
ファングッズとして金になるからさばいているだけである。
あれを真似して物語を作ろうとしてもだめだ。
何故なら、
物語は別のところからつくり、
あとで性格設定と世界設定を被せるからである。
何から作るかは人によって違う。
事件や解決から作る人もいる。
テーマから作る人もいる。
冒頭シーンを思いついたら最後まで書ける人もいる。
毎回同じやり方でできる人もいるし、
違うやり方でないとできない人もいる。
色々あって当然だ。
何故なら、作るべきストーリーは、毎回新しく違うものだからだ。
勿論、性格設定や世界設定からストーリーをつくるパターンが、
100%ダメだとは言い切れないので、
そこから名作を作れないとは断言しない。
けれど、特に初心者にとっては、
世界設定から作るのは、早々の挫折の原因になるのである。
まず第一。
初心者は、エネルギーがどれだけ完成までに必要か見積もれない。
映画脚本の完成は、およそ一ヶ月から三ヶ月程度の継続的集中を必要とする。
(人によって、作品によって異なるけど)
そして初心者ほど完成までの経験がない。
だから、たいていは世界設定にエネルギーをつぎ込んだ時点で、
エネルギータンクが空になってしまうのだ。
ペース配分がわからないのである。
こういうときは、世界観など作らずに、
さっさと事件と解決とその過程を先に作ってしまうことがおすすめだ。
性格設定の項と同じである。
あとから、このストーリーが生きる世界観を妄想して、
オリジナルの世界設定を作ればいいのである。
トールキンの指輪物語は詳細な世界設定で有名だが、
彼は元々言語学者だから出来たことである。
何も世界設定の専門家にあなたはならなくてよい。
ストーリーの専門家になるべきだ。
必要なところはあとで勉強する、ぐらいでよい。
まずはストーリーをつくりたまえ。
(一度組み上げておいたラフのストーリーを、あとで詳細にリライトするほうが簡単だ)
第二。
世界設定は、箱庭療法的な面白さがあること。
人形遊びは楽しい。
架空の世界で架空の人格を設定し、そこで架空の物語を作れる。
たいていそれはプロの作るストーリーよりも、
他愛のないもので、ストーリーの形すらしていないものだろう。
何故人はそれをするのだろう?
それが楽しいからだ、としか言いようがない。
架空の世界の架空の人格の架空の物語は、
それがなんであれ、人を癒す力がある。
現実では得られない、万能感があるからだというのが僕の考えだ。
人形遊びは、世界の神になれる。
架空の世界を作れる。
子供の頃の人形遊びは、大抵爆発とかで世界が滅亡して終わっていた。
それは、世界の神になる行為なのである。
箱庭療法は、そうした万能感を取り戻すことで、
現実に打ちのめされた心を回復する方法のひとつだ。
(同種のものに演劇療法や創作療法がある)
世界設定の面白さは、まさしくこの箱庭遊びと同じで、
自分の万能感を満たす快感がある。
問題は、その快感が目的になってしまうことだ。
物語は背景の世界設定が必要だ。
それは「今、現実」から異世界まで様々である。
しかし必要という意味は、
背景のない絵は変だ、という程度だ。
なんなら、背景のない絵もありえる。
(どこの国でもどこの時代でも成立する話はありえる)
背景がぼんやりしている印象派もありえる。
(一応現代の日本なのかな、ぐらいに。
時代劇の殆どは100年ぐらい年号がずれても成立するよね)
背景を詳細に書き込んだ結果、
前景の人物が物足りない絵もありえる。
(それは大抵しょぼい。漫画アキラは背景の革命であったが、
ストーリーはしょぼかった)
あなたはどんな絵がかきたいのか、ということである。
箱庭療法の快感の中にいると、
そもそもの目的を見失う。
あなたはストーリーが書きたいのか、
世界設定をしたいのかだ。
どちらかしか選べないのなら、ストーリーを書くべきだろう。
世界設定屋、というそれだけをやっている会社にアウトソーシングすらする作品もある。
勿論あなたがそっちに行きたいのなら止めないけど。
さて、世界設定は、何のためにあるのだろう。
ストーリーの為にあるのである。
たとえば「一度だけ生き返る世界がある」と設定してみよう。
その他の世界観はとりあえずおいといて、
それを「利用」したストーリーを書くのだ。
たとえば「私は一度死んだことがあるので、もう生き返らない」と、
敵を騙して一度死に、生き返って敵を倒すクライマックスを書くとする。
世界設定を使ったトリックのようなものである。
先にストーリーが出来てから、世界観をつくればいい。
たとえば一度死んだ履歴は本人しか知らないのか、
運転免許証に書いてある程度か、
一度死んだときの葬儀をする会社はあるか、
などなどである。
それらは、ストーリーと矛盾しない程度につくるとよい。
箱庭療法の快感が走り、
新しい設定を思いつくかも知れない。
しかしそれは捨てることだ。
何故ならストーリーはもう出来ているからで、
そのストーリーにはそれ以上の設定は不要だからである。
世界設定の快感は、新しい設定をどんどん産み出してしまうことがある。
それは、「ストーリーに必要なときだけ」採用し、
その他は捨てるべきである。
捨てるときはノートに書き、またそれだけで新しいストーリーを作ることをオススメする。
(たとえば「まれに二回死んでもOKな人がいる」なんて追加設定を思いついても、
現在のストーリーに矛盾が出るなら捨てるべき。
現在のストーリーに矛盾せず、かつ面白くなるなら採用してもよい
ちなみに、ゆでたまご先生は、後付けだが矛盾設定をつけたす天才である)
世界設定で息切れしている諸君は、
現代の日本を舞台にした短編でも書いてみるといい。
都会か田舎か、季節はいつか、程度の設定はいるけど、
世界設定0の作品を書けば、
世界設定は何のためにあるのか理解できると思う。
(たとえば「電車が走っている」という設定は設定せずに使えるだろう。
沖縄以外なら。「スマホがある」という設定も使えるだろう。
世界設定を必要とせずとも、ストーリーの都合で出現させることは可能である)
世界設定は、妄想を膨らませて箱庭療法をするためにあるのではない。
ストーリーが世界設定を利用するにすぎない。
(勿論、観客が世界観に浸る楽しみを否定しない。
あなたは観客ではなく、作者だ。
遊園地の設計者は遊園地を計算しなくてはならない)
2016年08月16日
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