テーマの誤解: not 作者の主張 but 構造から導き出されること
さて、シリーズ13の誤解、
核心部分に迫ろう。
テーマである。
テーマという言葉は、誤解が多い。
というよりも、ちゃんとした定義がない言葉だ。
色々な違う本質的なことを、
同じ「テーマ」という言葉で指していることが多く、
おそらく人類共通の見解はないと思う。
そこで、僕はこの脚本論内に限っては、
テーマ、モチーフ、コンセプト、メッセージ、
と、4つの言葉で使い分けることにしている。
映画に限って言えばこれが妥当だと思うけど、
別の芸術で使えるかは不明だし、
相手の思い込みもあるので、うっかり日常会話で使い分けない方が良いかもしれない。
あなたの中で未分離な概念がきっちり分けられ、
都度認識出来ればよいことである。
さて、今回の本題は、
メッセージはテーマではない、ということを言いたい。
メッセージをテーマと誤解している、という話である。
その前に、テーマという言葉で表されがちな、
4つの異なる概念を全部説明してしまおう。
その1:モチーフとテーマの違い
モチーフとは、描かれたもの。
テーマとは、描かれた意味。
たとえば「白い鳩が戦車に撃ち抜かれた」絵だとすると、
モチーフは白い鳩、戦車、血などだ。
絵によっては人々の顔が入るかもしれない。
この絵のテーマは、「反戦」だろう。
「平和の象徴である鳩を戦車で撃つような行為は、
決して許されるものではない」などと文に開いてもいい。
たとえば「てんぐ探偵」は、
モチーフは妖怪退治だが、
テーマは心の回復(心は回復できる)である。
負の心を妖怪に擬人化しているわけである。
(逆に擬人化とは、具体を持たない概念を具体にする行為だ。
キャラ化、というよりマンガチックなものもあれば、
恨みを幽霊に擬人化する場合もある)
モチーフとテーマは、よく混同される。
「春をテーマに絵を描いてください」という課題はよく出るが、
春をモチーフにする(桜や土筆をかく、春風を表現する)のか、
春をテーマにする(初恋の女の子をかく、我が世の春を「出世」をモチーフにかく、売春宿をかく)
のか、判然としないまま出題されることが多い。
たいてい、前者が正解で後者は考えすぎ、なんて言われる。
モチーフとテーマは混同されがちなのだ。
たとえば桜の絵を描いて、永遠の別れを意味することが出来る。
モチーフは春だけど、テーマは春ではないわけだ。
言語学で言うところの、
シニフィアンとシニフィエの違いと理解するとよい。
モチーフとテーマの混同の根本は、
「モチーフとテーマは同一である」という誤解だ。
京都人は「お茶漬けを食べていきなはれ」というモチーフで、
「はよ帰れ」というテーマを扱う。
これは文化的な伝統だが、
言葉が言葉通りの意味を持たないことぐらい、
大人なら知っているだろう。
逆に、表現とは、AをAで表現することではなく、
AをBで表現することである。
例:「あなたが好きです」の代わりに、
「月が綺麗ですね」と言うこと。
ただし、それまでの流れでこの意味が取れない場合は、
ただの月が綺麗な報告文である。
つまり、AがBで意味されるときには、「文脈」が必要だ。
T2の予告編「I'll be back」は、
あのターミネーターが再び帰ってくる、
という文脈で語られたから意味を持った。
実際に劇中で使われた台詞は、
文字通り「ちょっと行ってくるわ(あとで合流する)」
程度の、文字通りの意味でしかなく、だいぶガッカリした。
その2: コンセプトとテーマの違い
コンセプトは日本語にない言葉なので、
把握がとても難しい。
僕は「楽しんでもらうための趣向」と考えるといいと思う。
今年の夏のこの遊園地のコンセプトは、「涼む」です!
(流れるプール、ウォータースライダー、アイスバー、お化け屋敷などなどを用意)
みたいな。
映画だとどうか。
「ロッキー」を例にとろう。
楽しんでもらうための趣向は、
ボクシングの試合やトレーニング(生卵を飲む、走る、肉を叩くなど)と、
エイドリアンとのラブストーリーだろう。
つまりロッキーは、
ボクシングとラブストーリーがコンセプトの映画だ。
じゃ、モチーフは?
モチーフもボクシングとラブストーリーだ。
もっと細かく言えば、
「引退寸前の男が世界戦に指名された、ラッキー試合」が、
モチーフである。
それで起こる悲喜こもごもがモチーフである。
じゃあロッキーのテーマは何だろう。
僕は「誇りは、取り戻せる」だと考える。
ロッキーのテーマは「アメリカンドリームの実現」とか、
「沈滞したアメリカに与えた希望」などと評論されることがよくある。
それはテーマという言葉が広範囲すぎて、
映画が与えた結果まで含みすぎていると思う。
僕が使うテーマという言葉は、もっと狭い意味に限定している。
とりあえずロッキーは、
「引退寸前の男が世界戦に指名された、ラッキー試合」をモチーフとした、
「ボクシング(試合やトレーニング)とラブストーリー」をコンセプトにして、
「誇りは、取り戻せる」というテーマの映画だと僕は考える。
いよいよ本題。テーマって何?
僕は、テーマは文であるべきだと考える。
体現止めや名詞はテーマでなくモチーフだと思う。
ロッキーはボクシングをテーマにしていない。
ボクシングをモチーフにしている。
ボクシングをモチーフにして、
ボクシングを通して、
男が誇りを取り戻す様を描いた話である。
「男が誇りを取り戻す」は、ざっくりしたあらすじだ。
これも文だからテーマか。そうではない。
僕は、テーマはテーゼの形をしているべきだと考える。
典型的な形は「PはQである」のようなものだ。
それはひとつの主張である。
そして映画のストーリーは、それの証明をしている、
と僕は理解する。
ん?数学の話?
そうかも知れない。
どうしてそう言えるのだろうか。
典型的な、ハッピーエンドを考えよう。
なんにもないところからハッピーエンドになる話は、
あんまり面白くない。
面白いハッピーエンドは、不幸から始まって幸福に至る話である。
落差が大きければ大きいほど面白いからである。
ところで、ハッピーエンドをAと現せば、
話の出発点はその真逆、-Aで表すことができる。
つまり、-Aから+Aに至る話がハッピーエンドだ。
分かりやすく、勧善懲悪で考える。
「悪がはびこる世の中を、その悪を倒して正義をなす」
というのが勧善懲悪のテンプレである。
悪が-A、正義が+Aだ。
-Aから+Aに至る話は、
「-Aに価値はない、+Aに価値がある」というテーゼを証明する。
勧善懲悪は、悪はわるい、正義が価値がある、
というテーマを証明するわけだ。
証明だから、説得力がなければならない。
無理があったり矛盾していたら、そうは思えないからである。
だから悪はすごく悪く、それを上手にぎゃふんと言わせる正義を、
面白く、感情移入出来るように描くのである。
良くできた勧善懲悪を見終えた人は、
「そうだ、悪ははびこるわけがない。正義は勝つのだ」
と自然に思えたとき、
勧善懲悪のテーゼを証明することに成功したと言えるわけである。
さて、ロッキーは。
-A: 自信も誇りもない、うらぶれた男
+A: 誇りも自信も取り戻した、アメリカンドリーム体現者
と、開始と終了で真逆になっている。
ところでこれは、
「チャンスがあればアメリカンドリームは実現する」ことを証明しようとしているか?
そうではないだろう。
真逆になっているのは、アメリカンドリームのありなしではなく、
誇りのありなしだからだ。
チャンスはきっかけに過ぎない。
ロッキーは自らの力で誇りを取り戻した。
だから、「誇りは、取り戻せる」ことを自らの力で証明したのだ、
と考えられるだろう。
ハッピーエンドの典型的なパターンは、
最後に証明すべき価値の、真逆からはじめる。
価値のないことから話をはじめ、価値のあるゴールへ至る。
だから快感なのである。
バッドエンドはその逆だ。
価値あるものに気づけず、それを手からこぼして破滅する。
-Aは価値がないことを証明するわけである。
Aとは別の価値観Bからスタートし、
Aに至るパターンもあるだろう。
それは「一見Bが大事だと思うけれど、本当はAなんだよ」
という話になるだろう。
いずれにせよ、Aというテーゼが証明されるはずである。
さて、これらのことは、
ストーリーの構造が暗示することである。
台詞で言ったり、数学的に証明するわけでもなく、
対話の中で議論されるわけでもない。
劇中で一度もその言葉に触れていないのに、
そのストーリーを見終えたら、
そのストーリーが証明したテーゼが見えてくるのが、
素晴らしいストーリーだと僕は思う。
そしてそのように構造で語るべきだと思う。
語るのは野暮だ。自然に見えてくるのがよい。
(語るなら、映画にせず、論文や演説のほうが効率がいいのである)
さて、続きだ。
その3: メッセージとテーマの違い
「そのストーリーが言わんとすること」がテーマであり、
「作者の主張」がメッセージだと思う。
ロッキーは、物語の構造から、
「誇りは、取り戻せる」を暗示している。
それは作者のメッセージと一致しているかも知れないが、
してないかも知れない。
ひょっとしたら「アメリカ頑張れ」を、作者はロッキーという物語に込めたかも知れない。
「アメリカはチャンスの国だ」かも知れない。
実際、そのようなメッセージ性を感じたアメリカ人は、
ベトナム戦争で疲弊したところから、気分的に立ち直っていったという。
メッセージは政治的である。誰かを誘導する。
テーマは、政治的主張ではなく、
ストーリーが示した価値のことだと思う。
メッセージとテーマは一致する例もあるけど、
一致しない例もたくさんある。
軍国主義礼賛のプロパガンダ映画が好例だ。
テーマは「我が国は素晴らしいし、敵は恐ろしい」かも知れないが、
メッセージは「入隊せよ、あるいは銃後を守れ」だ。
あるいは広告がそうだ。
広告のメッセージは常に「この商品を買え」だが、
それを悟られないように、別の心地よいテーマのストーリーを作ったりする。
しかし読解力のある人々は、
それをステマだとして、無視するわけである。
よい広告とは逆に、
ストーリーが示した素晴らしい価値と、
商品の価値がうまく一致するものを言うと僕は思う。
テーマが伝わった結果、
メッセージを心地よく同一のものとして受け止めることが出来るのである。
(ストーリーが示した価値と、商品の価値をブリッジすることが、
本当のキャッチコピーだと僕は思う)
メッセージとテーマが齟齬を来していると、
とても気持ちが悪い。
そのメッセージのためにこのストーリーがベストか?
と疑問を持つからである。
メッセージを込めたストーリーは気持ち悪い。
政治的意図を感じるからである。
人は、なるべくなら他人に説教されたくないからである。
人は、おもしろい話を見たいだけであり、
説教やステマをされるのは真っ平ごめんだ。
だから、メッセージをテーマだと混同しないことだ。
混同すると、自分の主張を通すために、
そんなテーマの作品を作ることになる。
それは、下手くそな広告と同じ構造になる。
それどころか、
さらに下手な人は、メッセージを台詞で全部言ってしまったりする。
(僕のワースト10に入る「キャシャーン」という下手くそな実写映画では、
ずっと演説を聞かされる羽目になる。
それはブログでやれや、と今なら突っ込まれるだろうね)
メッセージなんてなくてもいい。
素晴らしい価値を示す、面白い物語を素直に作ればいいのだ。
(それが政治的意図に誰かに利用されることは、あるだろうけれど)
初心者向けに書こうと思ったけれど、
ここのところは難しい。
テーマとはなにかを、上手く言うことは難しい。
しかし人間は、文脈があれば、
Bの裏にあるAを読み取ることが出来る。
Aが政治的メッセージではなく、
価値あるテーゼになっていることが理想だ。
ちなみに、テーマを、全く新しいテーゼにする必要はないと思う。
使いふるされたテーマでも全く構わないと思う。
それを示す、新しいパターンを作るのが創作である、
と言っても過言ではない。
僕は、
「ほとんどの人が、完全に正しいとも間違ってるとも言えないことだけど、
真だと証明してほしいこと」を見つけるとよい、
と思っているし、なるべくそういう話を作ろうとしている。
テーマは、作者の主張ではない。
現代国語教育からして、僕は誤りであると思う。
AからAを読み取らせる客観教育しかしてないからである。
テーマとは、ストーリーの構造から分かる、
とあるテーゼのことである。
2016年08月18日
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