>アフリカの少年兵の無軌道さを描いた「ジョニー・マッド・ドッグ」という映画を観て思ったのですが、この映画は三幕構成がはっきりしていないのにも関わらず、
この映画見てないので飛ばします。見てから答えます。
予想ですが、ほんとの少年兵を少年兵役として使っているらしいので、
圧倒的なリアリティーがあるのでは。
>表現をするということは、賞賛以外にも批判、中傷も受けることになります。大岡様はそういったものにどう対処されているのでしょうか。慣れるものなのか、それとも傷ついて凹んだり、モチベーションが下がって作品作りに手がつかないということもあるのでしょうか。以前、書かなければ死んでしまうから書く、と仰っていましたが、他人の評価などもはや知る由もない境地なのでしょうか。よろしかったらお訊かせください。宜しくお願いします。
スポーツ選手とケガの関係に近いかと思います。
結論から言うと、年季かな。
スポーツ選手で、擦り傷ひとつしたことはない人はいないでしょう。
小さな傷や大きな傷を負っては治し、
あるいはリハビリに長い期間を棒にふり、
あるいは完治しない傷を抱えて現役を続け、
あるいは引退してから傷の痛みに耐え続けるけど知られていない人もいるでしょう。
年季があると、
ほとんどの怪我は経験があるようになります。
はじめての怪我じゃないわけです。
治し方や、痛い期間も予測がつくでしょう。
痛いことは痛いけど、
経験がそれを痛くなくさせるような気がします。
治るか治らないか分からない不安が、
怪我の痛みを倍増させるような気がします。
つまり年季とは、怪我を治してきた期間のことです。
もうひとつ。
スポーツ選手はきっと、そのスポーツにまつわる怪我の種類を知ってるでしょう。
陸上選手は肉離れがあることは予測できるけど、
溺れることは想像できないはずです。
逆に、肉離れは予測できる。
つまり、創作というのは、相手の反応を想像できるか、
ということと関係します。
私たちマスを相手にする表現という仕事は、
特定の個人を相手にするのではなく、
不特定多数の集団的人々です。
大衆です。侮蔑的な意味はない、わたしたち庶民です。
創作の初心者は、その大衆がどんな反応をするか、
分からずに作ります。
作るので精一杯で、
「よくやったと称賛を浴びる」程度しかイメージできないでしょう。
ところが大衆は、個人の都合で個人の好きなことを言います。
しかも一方的にです。
文句もあれば、罵倒もあり、好みじゃないこともあるでしょう。
手を叩く賞賛なんてありません。日本人ですから。
最も素晴らしい日本人の賞賛は、無言です。
無視と紙一重の反応です。
さて僕は、
小学校では演劇(コント)の作演出をやり、
中学高校大学では自主映画の脚本監督をやり、
ついでに漫画もかいてました。
色んな人と話をし、
沢山のアンケートを書いてもらいました。
ネットのなかった時代ですから、
その無記名アンケートだけかすべての反応でした。
そこから、大衆は、いかに自分のことしか考えていないかを、
あるいは、いかにバラエティーがあるか、
学ぶ機会がありました。
プロになってから(監督デビュー2000年)は、
2ちゃんがそのアンケートの代わりですかね。
勿論ボコボコに言われます。でもそれは精々100人。
それ以上のサイレントマジョリティがいることは、
経験上良く知っています。
さて、長年やっていると、
大衆がどう反応するか、予測する精度が上がってきます。
そりゃそうだ。そうじゃないと、
ここで笑わせる、ここで泣かせるなんてことが、
コントロール出来るはずがない。
いまいち失敗したところを感知する能力や、
それをリカバーする技もついてきます。
さらに精度が上がると、
ここで、何割はこう思い、何割かはこう思う、
なんてことが分かるようになる。
それはざっくり言うと、
「うまくいったかどうかは、公開前にわかる」ということです。
逆に言えば、
そんな予測のできない奴が、大衆の心を掴めるはずがないわけです。
(どうして受けているのか分からない、一発屋もいるけど)
ということで、これも年季です。
怪我の予測も、出来るようになるわけです。
作品は毎回完璧に作れるわけじゃない。
リリースしても、直したいところは沢山ある。
だからここでこう言われるだろうな、というところは既に分かっているわけです。
だから、怪我の準備は出来ているようなもの。
創作者は、ニコニコして言い訳をしないものです。
誉められる所も文句を言われるところも、既に知っているのですから。
ただし、誤解だけはされたくない。
表現が不完全なのは自分のせいですが、表現に完全はない。
だから、誤解を解くことだけは発言したりします。
ネット時代になっても、作者はやはりそういうものだと思います。
言い訳連発する作者もいるけれど。
ということで、
全部年季。
怪我を予測できて、血を流すことに慣れていること。
たったそれだけです。
昔流血を必ずするプロレスラー、アブドーラザブッチャーがいました。
彼の額はフォークで傷つけ過ぎて、
ボコボコになっていましたね。
それでも毎回流血させる。
痛くないわけはないけど、その痛みは知ってる、という感覚でしょう。
(逆に段取りにない、背中にフォークを刺すアクシデントがあれば、
初めての痛みで凄く痛いのではないかなあ)
あ、プロの映画監督をやっていちばんよかったのは、
スクリーン側から観客の顔を二時間見れたことです。
ヤクルトホールの試写だった。
僕はスクリーンなんか見ずに、二時間観客を見てました。
どこが予測と違い、どこが予測と合っているか。
そこで知ったことは、大衆というものは、
無言で反応するくせに、
暗いハコの中では、とても感情豊かであることです。
予測よりも笑い、予測よりも泣き、予測よりも退屈していましたね。
声に出さない所で沢山の感情が動いていて、
そりゃ人間だものなあ、と、思ったものです。
おそらく、そういう経験も年季の一部なのでしょうね。
それでも何故創作を続けるのか?
スポーツ選手と大体同じでしょうね。
仕事だからではないでしょう。
なんだかんだで、面白いんですよ。
2016年08月21日
この記事へのトラックバック
反面教師にしてください。