2016年08月21日

映画音楽と脚本

映画音楽は、脚本と関係がない。
脚本に楽譜を添付することはないし、
そもそも脚本が出来て、
撮影して、編集して、
その絵をもとに音楽を作り始める。
脚本と音楽の制作の時間差は、半年から一年の開きがある。

しかし、本当に音楽と脚本は関係ないか?


そもそも、映画音楽は何のために流れるのだろう。

ピンチの時にはハラハラする音楽が、
悲しい時には悲しい音楽が、
何かが進行しているときは怪しい音楽や軽快な音楽が流れる。

音楽はつまり、感情表現のひとつである。

監督が音楽を決めるとき、
その感情を説明して作曲家に言うことがある。
こういう文脈のこういう感情で、と。

そう。
ここに脚本が関係する。


何もない所に音楽を流すのは、映画音楽ではない。
(正確に言うと、何も出来なかったから音楽で色をつけてくれ、
なんていう音楽頼みの場面も、なくはない)

映画音楽は、感情を表現するためにある。
それは、脚本に書いてあるのだ。


台詞で感情を説明する場面もあるだろう。
しかし、無言で感情が伝わってくる場面もあるだろう。

脚本的には、
A「…」
と書かれるところだ。

上級者は、そういうところに音楽がかかると効果的だということを知っている。
役者に表現させるのではなく、
ここは音楽に表現させた方が効くぞ、と判断し、
万感の「…」を書くのである。

勿論、台詞部分だけではない。
情景にかかる音楽もあれば、
行動部分にかかる音楽もあるだろう。

そこに音楽がかかれば、その文脈の感情が増幅するだろうことは、
誰でも想像できるはずだ。


脚本で「ここで○○な音楽がかかる」なんて指定するのは初心者だ。
上級者は、ほっといてもここで音楽が欲しくなるように、
隙間を作って書くものである。
そのような、文脈を作り上げるのである。

その文脈を作ることこそが、脚本のオリジナルの仕事である。


僕は脚本と監督を兼ねてしまうので経験がないけど、
脚本家オンリーでやって来た人は、
監督がまんまと狙いどころで音楽をかけると、
ニヤリとするのではないだろうかね。


さて、ではテーマ曲はどうだろう。
僕はジョンウィリアムズや久石譲の映画音楽が大好きだ。
ワクワクしたり、せつない気分になる。
それは、その感情こそが、その映画の主題だ、ということなのだ。
(タイアップ主題歌?あほか)

僕は「いけちゃんとぼく」のテーマ曲が作曲家から上がってきたとき、
これこそこの映画で表現したい感情だと思った。
やさしさや懐かしさを含み、繊細で雄大な愛情。
(オープニングと別れのところで使っている)
それは、脚本のどこにも書いてない、全部で書いた感情かもしれない。

ちなみにソニーミュージックのタイアップを、僕はテーマ曲だと認めていない。
一度も音楽打ち合わせがなく、エンドロールに上がったものを嵌める作業しかなく、
コストがかかるからという理由でサントラを出さなかった角川映画のプロデュースぶりを、
僕は一生許さないだろう。
それは、映画とは感情であり、音楽も感情である、
ということの無理解だと考えるからである。



あなたの脚本は、どこでどんな音楽がかかる?
それは、考える必要すらない。
そんな文脈と感情が、ガッツリ感じられればOKなのだ。

脚本は、直接音楽と関係ない。
しかし最終的には、不可分のものになるだろう。



ところで、僕は映画音楽家ハンスジマーが嫌いだ。
彼の奏でる、不安や衝撃やどんでん、駆り立てられる感じが、
僕は好きではない。
これがテーマ曲の映画も、
不安や衝撃やどんでん、駆り立てられる感情が、
主題になっている。
破壊的で、建設的ではないと思う。
posted by おおおかとしひこ at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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