2016年08月23日

テーマの選び方

物凄く広い話題だけれど、
この記事の範囲を狭くする。

下手くそな人は、テーマを政治的にしがちである、
ということである。


それは、テーマをメッセージと考える誤解からではないか。
(13の誤解参照)
もし主張があって、
その為に物語があるのだとすると、
それは大なり小なりプロパガンダである。

物語はプロパガンダではない。
プロパガンダになることはあるが、
プロパガンダになるべきではない。

あなたなりの、
「世界はこうあるべきだ」「世界はこうあるべきではない」
は、色々あると思う。
しかしその主張をすることは、政治的になる。

つまりパワーゲームに巻き込まれる。
賛成する人と反対する人がいて、浮動票を取りに行くことに。
なるべく多数派からはじめる効率にだ。

とすると、全ての人を幸せにすることではなく、
最初からいる賛成派と、最初からいる反対派を調査すれば、
どの程度受けるか計算できてしまう。
それは、共感する人と共感しない人を分けるマーケティングに繋がり、
それは多数派という市場原理に巻き込まれ、
現状維持の主張しかできないだろう。

主張は政治的である。
パワーゲームに参加することになる。

主張にも年季というものがあって、
主張の初心者とベテランがいる。
初心者は世界の捉え方が大雑把で、
世界の作動原理についても大雑把だ。

だからたとえば、「世界は資本家に牛耳られているから、
戦闘的マルクス革命によって、理想的共産国家を建設する」
なんていう大雑把なストーリーに心酔してしまう。

そんなわけないのに、世界は単純に見えているのだろう。


俳優窪塚が、ただのイケメンからネトウヨ的に変貌し、
さらにピースのバイブスな人になったことは、
随分前だが記憶に新しい。
彼は主張の初心者だったのかも知れない。
広告塔として、何者かに操られていた可能性すらある。


主張の初心者は、
自分の主張を演説したらそれで相手は感動し、
主張を変えるだろうと無邪気に考えている。
だって自分がそうだったのだから。
宗教の勧誘のようだ。
そこに思考停止がある。
「相手も自分と同様に考えるとは限らない」という広い視野が欠けているのだ。


主張のベテランは、自分の話のどのあたりで、
「でもこうでは?」と反論が来ることがわかる。
広い視野のなかにいるからだ。
それを予測し、反論への反論を準備しているものである。
反論の反論の反論、反論の反論の反論の反論、
ぐらいは将棋指しのように考えるだろう。


さて物語だ。

物語は主張ではない。
これを学ぶのに格好のくそ映画「キャシャーン」実写版を見るべきだ。
監督紀里谷の小学生なみの演説を見ることができる。
これに共感する人だけが共感するだろう。
共感しない立場の人は、おいてけぼりだ。

僕が共感する/しないを軸にせず、
全ての人が感情移入できるように、
とよくいうのは、
政治的プロパガンダ(パワーゲーム)に付き合っても意味がないからだ。
そんな一定数の共鳴を拾いにいくことよりも、
全ての人を巻き込み、行く末に夢中にさせることのほうが、
物語にしか出来ないことである。

そしてそれこそが、世の中を変える可能性を秘めていると思う。



テーマとは価値である。
こういうのがいいよね、という「価値の確認」だと僕は思う。

評価が定まらない、新しく難しいものよりも、
皆が既に知っている安心できるものを提示すると、
自分は騙されていないと安心する。
しかし、既知の提示には飽きているから、
「新しい見せ方で、その価値を(再)確認する」
ということをやるといいだろう。

だから、大抵のテーマ自体は新しくない。
モチーフや、見せ方や、構成や、ガワが、新しいのである。

さらに進むと、
「完全に真だと証明されたわけではないが、
皆が真だと思いたいこと」は、テーマとして魅力的に見えることが多い。

たとえばズートピアは今のところ今年一番の傑作だったが、
テーマは「偏見を取り去って多様性を認めよう」であった。
これは移民の問題に対して、
ニューヨークがどう考えると幸せになるか、
という一種の思考実験だ。
それを個人の内面に入ってまでやったことが賞賛に値する。
偏見を持たないなんて言うだけは簡単だ。
しかしそれは簡単に忍び寄るのだ、
という事実に気づかせ、それを克服するにはどうすればいいか、
というところまで見せた、素晴らしい脚本力だった。

多様性は政治的かも知れない。
しかし反論に反論できる、今のところのベストオブベターの解だろう。



テーマを、斬新で、新しくする必要はない。
それは、説明するだけで難しく、理解に時間がかかる。
それは論文やブログでやればいいことだ。

考え方の発明をする必要はない。
あるものを魅力的に語り直す力が一番大事だ。

若者は、
表現も斬新で、テーマも主張も斬新なものを好む。
書く方も見る方も。
それは素晴らしいことだ。
うまくいけばね。

僕は、その可能性がありながら、
結局普通のプロパガンダになってしまったものや、
結局どうにもうまくいかなかったものを、
生きた分だけ見てきたので、
斬新な完成品になる確率は、万分の一よりも小さいことを知っている。
成功したものは、全てが斬新ではなく、
「ここだけが斬新」という腰かけ斬新であることも。

新しい考え方を見せたい、とはやるのはよし。
それが政治的に堕してはならない。
感情移入によって、
全ての人がその考え方に至るように作れたら、
それは魔法になるだろう。
あなたはそのような魔法使いになるのが理想だ。


結果的にはプロパガンダだが、
単に押し付けるいわゆるプロパガンダ
(宗教物語、戦争賛美、進研ゼミのマンガあたりに、
それらを見ることができる)とは、
全く違うものになるはずだ。
下手くそに主張するのは下手な洗脳だ。
上手な洗脳は、もっとうまくやるはずだ。


さて、テーマをどう選ぶか。

自分の主張を選ぶのは、最初はやめておこう。
他人の手垢のついたものを、
自分なりに再解釈して、表現を新しくすることからはじめるとよい。

テーマと物語の関係をつかみ、
自由になるようになってから、
このテーマで物語は書けるか?と改めて自分に問うと良い。
書けなければ、テーマの次元を下げ、
どこまでなら書けるかを探っていくとよい。
posted by おおおかとしひこ at 09:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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