物凄く広い話題だけれど、
この記事の範囲を狭くする。
下手くそな人は、テーマを政治的にしがちである、
ということである。
それは、テーマをメッセージと考える誤解からではないか。
(13の誤解参照)
もし主張があって、
その為に物語があるのだとすると、
それは大なり小なりプロパガンダである。
物語はプロパガンダではない。
プロパガンダになることはあるが、
プロパガンダになるべきではない。
あなたなりの、
「世界はこうあるべきだ」「世界はこうあるべきではない」
は、色々あると思う。
しかしその主張をすることは、政治的になる。
つまりパワーゲームに巻き込まれる。
賛成する人と反対する人がいて、浮動票を取りに行くことに。
なるべく多数派からはじめる効率にだ。
とすると、全ての人を幸せにすることではなく、
最初からいる賛成派と、最初からいる反対派を調査すれば、
どの程度受けるか計算できてしまう。
それは、共感する人と共感しない人を分けるマーケティングに繋がり、
それは多数派という市場原理に巻き込まれ、
現状維持の主張しかできないだろう。
主張は政治的である。
パワーゲームに参加することになる。
主張にも年季というものがあって、
主張の初心者とベテランがいる。
初心者は世界の捉え方が大雑把で、
世界の作動原理についても大雑把だ。
だからたとえば、「世界は資本家に牛耳られているから、
戦闘的マルクス革命によって、理想的共産国家を建設する」
なんていう大雑把なストーリーに心酔してしまう。
そんなわけないのに、世界は単純に見えているのだろう。
俳優窪塚が、ただのイケメンからネトウヨ的に変貌し、
さらにピースのバイブスな人になったことは、
随分前だが記憶に新しい。
彼は主張の初心者だったのかも知れない。
広告塔として、何者かに操られていた可能性すらある。
主張の初心者は、
自分の主張を演説したらそれで相手は感動し、
主張を変えるだろうと無邪気に考えている。
だって自分がそうだったのだから。
宗教の勧誘のようだ。
そこに思考停止がある。
「相手も自分と同様に考えるとは限らない」という広い視野が欠けているのだ。
主張のベテランは、自分の話のどのあたりで、
「でもこうでは?」と反論が来ることがわかる。
広い視野のなかにいるからだ。
それを予測し、反論への反論を準備しているものである。
反論の反論の反論、反論の反論の反論の反論、
ぐらいは将棋指しのように考えるだろう。
さて物語だ。
物語は主張ではない。
これを学ぶのに格好のくそ映画「キャシャーン」実写版を見るべきだ。
監督紀里谷の小学生なみの演説を見ることができる。
これに共感する人だけが共感するだろう。
共感しない立場の人は、おいてけぼりだ。
僕が共感する/しないを軸にせず、
全ての人が感情移入できるように、
とよくいうのは、
政治的プロパガンダ(パワーゲーム)に付き合っても意味がないからだ。
そんな一定数の共鳴を拾いにいくことよりも、
全ての人を巻き込み、行く末に夢中にさせることのほうが、
物語にしか出来ないことである。
そしてそれこそが、世の中を変える可能性を秘めていると思う。
テーマとは価値である。
こういうのがいいよね、という「価値の確認」だと僕は思う。
評価が定まらない、新しく難しいものよりも、
皆が既に知っている安心できるものを提示すると、
自分は騙されていないと安心する。
しかし、既知の提示には飽きているから、
「新しい見せ方で、その価値を(再)確認する」
ということをやるといいだろう。
だから、大抵のテーマ自体は新しくない。
モチーフや、見せ方や、構成や、ガワが、新しいのである。
さらに進むと、
「完全に真だと証明されたわけではないが、
皆が真だと思いたいこと」は、テーマとして魅力的に見えることが多い。
たとえばズートピアは今のところ今年一番の傑作だったが、
テーマは「偏見を取り去って多様性を認めよう」であった。
これは移民の問題に対して、
ニューヨークがどう考えると幸せになるか、
という一種の思考実験だ。
それを個人の内面に入ってまでやったことが賞賛に値する。
偏見を持たないなんて言うだけは簡単だ。
しかしそれは簡単に忍び寄るのだ、
という事実に気づかせ、それを克服するにはどうすればいいか、
というところまで見せた、素晴らしい脚本力だった。
多様性は政治的かも知れない。
しかし反論に反論できる、今のところのベストオブベターの解だろう。
テーマを、斬新で、新しくする必要はない。
それは、説明するだけで難しく、理解に時間がかかる。
それは論文やブログでやればいいことだ。
考え方の発明をする必要はない。
あるものを魅力的に語り直す力が一番大事だ。
若者は、
表現も斬新で、テーマも主張も斬新なものを好む。
書く方も見る方も。
それは素晴らしいことだ。
うまくいけばね。
僕は、その可能性がありながら、
結局普通のプロパガンダになってしまったものや、
結局どうにもうまくいかなかったものを、
生きた分だけ見てきたので、
斬新な完成品になる確率は、万分の一よりも小さいことを知っている。
成功したものは、全てが斬新ではなく、
「ここだけが斬新」という腰かけ斬新であることも。
新しい考え方を見せたい、とはやるのはよし。
それが政治的に堕してはならない。
感情移入によって、
全ての人がその考え方に至るように作れたら、
それは魔法になるだろう。
あなたはそのような魔法使いになるのが理想だ。
結果的にはプロパガンダだが、
単に押し付けるいわゆるプロパガンダ
(宗教物語、戦争賛美、進研ゼミのマンガあたりに、
それらを見ることができる)とは、
全く違うものになるはずだ。
下手くそに主張するのは下手な洗脳だ。
上手な洗脳は、もっとうまくやるはずだ。
さて、テーマをどう選ぶか。
自分の主張を選ぶのは、最初はやめておこう。
他人の手垢のついたものを、
自分なりに再解釈して、表現を新しくすることからはじめるとよい。
テーマと物語の関係をつかみ、
自由になるようになってから、
このテーマで物語は書けるか?と改めて自分に問うと良い。
書けなければ、テーマの次元を下げ、
どこまでなら書けるかを探っていくとよい。
2016年08月23日
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