2016年08月25日

【すーざんさんへの回答箱2】「ジョニーマッドドッグ」はVRだ

ということで、見たので解説をしてみます。
結論から言うと、シンゴジラを僕が何故否定するか、
ということに収斂します。
結構だいじな話なので、ジョニーマッドドッグを見てない人もご覧ください。
(多少のネタバレはありますが、そこはあまり重要でないと判断します)

> アフリカの少年兵の無軌道さを描いた「ジョニー・マッド・ドッグ」という映画を観て思ったのですが、この映画は三幕構成がはっきりしていないのにも関わらず、面白かったです。三幕構成かと言われればそうでもない、でも面白い。という“例外”はあるのでしょうか。もしあるとすれば、“例外”にも関わらず面白いのはなぜなのでしょうか。(人間が描けているから、だとは思いますが)


この映画のセンタークエスチョンは何でしょう?
「戦争は終わるか?」かな。
それは現実で我々は知ってるわけです。
ノーだと。カオス過ぎて終わらないだろうと。
その時点で、この映画はバッドエンドになることを約束されているわけです。

つまり、この映画をハッピーエンドの文法や、
その典型的三幕構成では分解できません。

ちなみに、第一ターニングポイントと第二ターニングポイント「らしき」
ものがきちんと設定されています。

第一はマッドドッグと、
以後カットバックされる少女(役名失念)との出会い、
第二は、再会(米騒動での)です。

第一までが30分強、第二以降は10分ぐらいしかなかったので、
これは少々いびつな尺構成です。
(ちなみに、町への突撃と少女の登場が30分、
少女の父の死で墓場で二人が偶然すれ違うところが90分ごろと、
リズム構成的にはわりと完璧でした)

しかし戦争という異常な事態を描いてるから、
意味的にいびつな構成になるのもしょうがないか。

マッドドッグは、ちょっと好きになった女が殺されるまでは、
ただの悪役と言ってよいでしょう。
感情移入出来るところはない。
劇としては、
これまで自分がしてきたことと同じくらい軽く、
女が殺され、大将が寝返ったことで、
はじめて「戦争のあと何をする?」ということに発想が及びます。
一方、
少女のほうはそれと入れ替わるように暴力に目覚める。
暴力のループを描くクライマックスで、
バッドエンドのテーマが悲劇的に確定するわけです。


さて、この映画は面白いかなあ。

少年兵たちの頭の悪さ、愚かさがあまりにも恐ろしく、
その様は衝撃的でした。
最初の村、テレビ局、麻薬の景気づけ、国連軍の病院に負傷者を届ける場面、
頭のいい夫婦にセックスを強要する場面。
一方豚を奪ったものの名前をつけて愛着を持ったりすることなど、
ただの悪魔の子じゃない感じが、悲劇を倍増する仕掛けになっています。
最初の村で親父の死と入れ替わりに兵隊になったピンクの服の子が、
途中であっさり死ぬのもエグかった。

で、はてこれは、と思うわけです。
要するにこれは地獄巡りだなと。

人はどこまで愚かなのか。
そこに向き合うから、この映画は「面白い」のではないでしょうか。
出口のない愚かさを、出口のない愚かさで劇化することで、
訴える政治的意図があると思います。

私たちはこの愚かさを前に、なにもできない。
その無力感が、この地獄巡りのスパイスです。


で。
構成としては、実は「落下する夕方」テンプレと同じでした。
最後の最後にマッドドッグは一歩踏み出して終わる、
というパターンにおいて。

通常の劇ならば、彼は何もしていない、と非難を浴びるところ。
しかし彼は何も出来ないのである、
この愚かな政治的状況では、
というプロパガンダなので、
この構成で、テーマ(というよりメッセージ)は伝えられると思います。



逆に、通常のハッピーエンド型の映画は、
整理された状況でしか効果がないということです。
映画が娯楽であり文化たりえるのは、
平和が前提なわけですな。

戦争を告発するのが文学である、
という立場もあるでしょう。
それはプロパガンダの文脈に巻き込まれることになります。
カンヌの「ある視点」という部門、というのはよく分かる。
カンヌは元々こういうものを拾い上げる場でもあるので。



で、この映画のすばらしさは、
「圧倒的な緊張感」ではないでしょうか。

それは感情移入とは違うものです。
「ブラックホークダウン」あたりから、
そういう文法が増えたような気がします。
カメラ手持ち、全部の状況が見えない、不安だらけで事が進み、
最後にほっとする、という感じのもの。

主人公の中に入るというより、
「状況に没入させる」タイプのもの。
これを異星人版にしたのが、「世界侵略:ロサンゼルス決戦」で、
地雷ネタにしたのが「ジャーヘッド」かな。

この映画は、
カオスな状況やバッドエンドや、
誰もその状況から抜け出せないこと、
モチーフそのものがテーマになっているので、
ギリギリ文学足り得たと思います。



さて、質問の答えになっているでしょうか。

この手のタイプの映画は、
ディテールの出来は良かったけど、
何度も繰り返して見て人生の真実を堪能する、
というものではないと思います。

「誰も見たことのない光景」をハントしてきた功績は素晴らしいけれど、
よく見るとエログロナンセンスだし。
(エログロナンセンスこそが戦争である、
という告発だから成り立っている)


逆に、
何度も繰り返して見て人生の真実を堪能するタイプの映画は、
伝統的三幕構成が適している(または効率がいい)と考えます。

さらに言えば、
これを伝統的三幕構成で描くならば、
何故戦争が起きて何故終わらないのか、
少年兵は何故生まれどうやれば生まれないのか、
黒人の経済は何故発展しないのか、
白人は何故黒人を差別するのか、
奴隷がいないと資本主義は成り立たないのか、
などについて、
映画の中で一定の答えを出さなければ、
納得してスッキリしないはずです。

つまり、伝統的三幕構成は、
すべての事が分からなくてはなりません。
すべての事が分かるように、整理されるべきです。

これらの疑問に答えが出ない現実があるからこそ、
この映画は現実の写し絵であり、
カオスなままの構成にならざるを得ないわけです。


さてもう少し大きな話。

2000年代後半くらいから、
こういう
「手持ちでドキュメント風に作り、
状況に没入させ、整理されていない状況で、
何か事件が起こり何かが終わる」
という、非三幕構成の映画が増えたような気がします。

それは、圧倒的な緊張感やリアリティーを持ってきて、
「作り物じゃない、まさにそこでやってる感じ」の、
ある種の再現です。
最初にそれを見たのは「プライベートライアン」の冒頭かもなあ。
「すごい体験、没入感」みたいなことが言われます。
それは近年「ゼログラビティ」の無重力浮遊体験に至る、
ずっと続く系譜のような気がします。
あ、「オデッセイ」もそこに入るね。


仮に、VR体験映画と呼びましょう。

これらは、VRの凄さが売りで、その再現に注力します。
しかし昨今映像技術の発達で、
映画というスタイルでなくても、
VRアトラクションなどで体験できるし、
4Kやら3DやらARやら360カメラのヘッドセットやらで、
映画より本物のような疑似体験ができます。

つまり、映画はもはや、映像だけによるVRとしては、
(金のかかりかたは別として)
既に時代遅れだと僕は考えます。


VR映画の例は、
上にあげたものの他にも、
「世界侵略:ロサンゼルス決戦」「クローバーフィールド」
そして「シンゴジラ」に見ることが出来ます。
あるいは、「恋の渦」なんて、若者の恋愛群像をVR的に体験するネタもありました。

これらは、
「体験は凄いけど、俯瞰して見たとき、
それがなんの意味があるのかよくわからない」という共通点があります。

アトラクションに意味を求めるのがナンセンスなのです。


僕は、映画は、
映像によるVR体験は、必要最小限でよいと考えます。
今や数々のアトラクションのほうが強いから。
映画にしか出来ない予算で作ることは否定しませんが。
(たとえばもうベンハーの戦車シーンは作れないだろう)

映画にしか出来ないことは、
感情移入による物語性ではないかと僕は考えます。



さて、結論。
「ジョニーマッドドッグ」は、
VR体験として面白かった。
それを俯瞰し、意味をなす構造はなかった。
ただし、戦争というものはカオスであり、
意味のある構造を持たないことへの強い告発としては、
意味を持ち得た。
わたしたちは世界で起こっている内戦のことを知らなさすぎるし。


ここが、シンゴジラのVR体験と比較出来る部分でしょうか。
シンゴジラは俯瞰してみれば、
嵐はなんとか去ったのでまたコツコツやる、
以外の意味を持ち得ていませんね。
そんなもん知ってるし、今更言われてもな、と普通なら考えるものです。



質問の回答でいえば、
三幕構成はおもしろさの必要条件とは限りません。
おもしろさは無限にあるから、
それが三幕構成のスタイルにはまらないことは沢山あり得ます。
三幕構成は、意味を伝える為にあると思います。
意味を伝えるのに、最も効率的な構造というか。

ジョニーマッドドッグは、
戦争は意味や知性を壊すほどの愚かさである、
という意味を、構造を壊すことで表現している、
メタ的な構造です。
意図的かどうかは不明です。
偶然のような気もするし、定番のような気もします。

塚本晋也版「野火」も、同じ構造ですが、
私たちが太平洋戦争をある程度総括できているため、
少し滑稽だったように思います。
戦争体験の継承としては、多少の意味はありそうですが。
posted by おおおかとしひこ at 11:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大岡様 これほど丁寧に解説していただけるとは思いませんでした。本当にありがとうございます。24日の更新がされなかったのは、ジョニーマッドドッグをご覧になって、返信の下準備をされていたからだと思うと、恐縮の至りです。大岡様に質問をしたのは、この映画を観たすぐ後でした。その後次第に興奮が冷めてくると、自分はガワの凄さにやられたのではないか、主人公は成長と呼べるほどの変化はしていない、でも不思議と惹き付けられたのは確かだ、とグルグル考えてしまいましたが、記事を読んで納得しました。ガワのインパクトを、映画の本質的な面白さと混同してはいけない。(しかし、そう錯覚してしまうほど、ガワには力がある)、と私なりに解釈しましたがいかがでしょうか。
Posted by すーざん at 2016年08月26日 02:45
すーざん様コメントありがとうございます。

単にちょっと仕事が忙しいので、最近書けてないだけです。

三幕構成はベストとは限らない、と僕は最近思っています。
音楽が8ビート以外に沢山あるように。

内容とリズムが不可分になるまで煮詰めるべきかと。
(結果、8ビートや三幕構成が多い、というだけで)
その意味で戦争映画は、破綻が意味あることだったり。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月26日 14:14
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