どうしてその人は、そのような目的があるのか。
それは、その人に個人的な事情があるからだ。
目的だけを設定しても、
いまひとつ芯に来るものにならない。
他人行儀というか、なんか知らない人が適当に何かをやっている感覚にしかならない。
その目的に血肉が備わり、体温を帯び始めるのは、
その人の個人的事情が分かってきたときだ。
それは私たちの共感能力と関係するかも知れない。
同情とかから始まるのかも知れない。
自分と似ているという共感から始まるのかも知れない。
(外見や環境や状況を似させるのではなく、
内面や判断を似せさせる、
つまり「自分ならこう思う」が似ている、
ということが、
全く異なる外見、環境、状況の物語にも、
感情移入させるコツであった)
個人的事情は、
あまり幸福ではないことが多い。
幸福な人に、あまり人は興味がないからだ。
ある日ある時、幸福な人がいました。
で?
になる。
ある日ある時、幸福な人がいました。
でも不幸が訪れたのです。
なら、その先は?になる。
ある日ある時幸福な人が、更に幸福になることにしました。
何故なら、この幸福は真の幸福ではないと悟ったからです。
ならば、それは不幸スタートになり、不幸のジャンルに入るかも知れない。
名前。職業。住んでるところ。
恋人や嫁。家族。過去の思い出。現在の人間関係。
それらは、個人的事情の説明に一役買うことになる。
その人が本当に存在している感じにも一役買う。
そのような事情がほんとにありそうだという、
架空の確信が、
その人を本当らしくみせ、
その人の目的遂行の行く末に、
傍観者ではなく当事者(近辺)として心配させることになると思う。
つまるところストーリーとは、
ある問題の解決を描くのだが、
どうしてそれを解決しようと思ったかについて、
その人の個人的事情があるべきだと思う。
こういう人だからこそ、こういう目的を持つ
(その問題の解決というセンタークエスチョン)、
というところに感情的繋がりを持つと、
人はそれに傍観者ではなく当事者(近辺)として参加するはずだ。
それを単純に感情移入とよぶ。
(感情移入と単なる共感や同情は異なる)
その個人的事情(幸福より不幸の確率が高い)に感情が動くこと。
その個人的事情ならば、その目的は当然だと思うこと。
それが感情移入の始まりかも知れない。
2016年08月29日
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