2016年08月29日

目的と個人的事情

どうしてその人は、そのような目的があるのか。
それは、その人に個人的な事情があるからだ。


目的だけを設定しても、
いまひとつ芯に来るものにならない。
他人行儀というか、なんか知らない人が適当に何かをやっている感覚にしかならない。

その目的に血肉が備わり、体温を帯び始めるのは、
その人の個人的事情が分かってきたときだ。


それは私たちの共感能力と関係するかも知れない。
同情とかから始まるのかも知れない。
自分と似ているという共感から始まるのかも知れない。
(外見や環境や状況を似させるのではなく、
内面や判断を似せさせる、
つまり「自分ならこう思う」が似ている、
ということが、
全く異なる外見、環境、状況の物語にも、
感情移入させるコツであった)


個人的事情は、
あまり幸福ではないことが多い。
幸福な人に、あまり人は興味がないからだ。

ある日ある時、幸福な人がいました。
で?
になる。

ある日ある時、幸福な人がいました。
でも不幸が訪れたのです。
なら、その先は?になる。

ある日ある時幸福な人が、更に幸福になることにしました。
何故なら、この幸福は真の幸福ではないと悟ったからです。
ならば、それは不幸スタートになり、不幸のジャンルに入るかも知れない。


名前。職業。住んでるところ。
恋人や嫁。家族。過去の思い出。現在の人間関係。
それらは、個人的事情の説明に一役買うことになる。
その人が本当に存在している感じにも一役買う。

そのような事情がほんとにありそうだという、
架空の確信が、
その人を本当らしくみせ、
その人の目的遂行の行く末に、
傍観者ではなく当事者(近辺)として心配させることになると思う。


つまるところストーリーとは、
ある問題の解決を描くのだが、
どうしてそれを解決しようと思ったかについて、
その人の個人的事情があるべきだと思う。

こういう人だからこそ、こういう目的を持つ
(その問題の解決というセンタークエスチョン)、
というところに感情的繋がりを持つと、
人はそれに傍観者ではなく当事者(近辺)として参加するはずだ。

それを単純に感情移入とよぶ。
(感情移入と単なる共感や同情は異なる)


その個人的事情(幸福より不幸の確率が高い)に感情が動くこと。
その個人的事情ならば、その目的は当然だと思うこと。
それが感情移入の始まりかも知れない。
posted by おおおかとしひこ at 13:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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