2016年08月31日

宮台真司のシンゴジラ批評に思うこと

宮台真司の評を貼っておく。

http://realsound.jp/movie/2016/08/post-2595_entry.html

ああ、僕がかの主人公に感じた気味悪さ、幼さは、
シンジが胎内にいる気持ち悪さと同等であったか。
気持ち悪いので深く考えなかったよ。

エディプスコンプレックスの物語は、
父殺しがクライマックスになる。
結末は母を妻にめとること。
ゴジラを倒しても父殺しにはならず、
だからカタルシスは起こらないのだね。



僕は80年代のネオアカで育った世代で、
宮台とか上野千鶴子とかに影響を受けてることを、
ちょっと思い出した。
彼らは80年代の文化と同じで、批評は出来るけど、
何も産み出さない。
そこがイライラしたことも、ちょっと思い出した。

で、久しぶりに氏の文章を読んで思ったんだけど、
文意を正確に表すためのこのボキャブラリーに、
殆どの人はついてけないんじゃないかと思って。
最終段落以外の単語は僕全部知ってるけど、
みんなそうじゃないと思う。

それはあの映画の台詞の殆どを、
観客は聞き取れてないんじゃないか、
という想像に繋がった。
つまり、よくわからないけど官僚は機能している、
という風にみんな思考停止したんじゃないか?

僕は殆どヒアリング&理解したので、
殆どの台詞が状況設定台詞じゃねえか、
と突っ込みながら見てたんだけど、
殆どの人はそう見てないのかも知れない。

つまり、庵野は、速いビートの音楽で逃げ切ったんだよ。
「愚昧な観客」を乗せるためにね。



で、僕は宮台氏のように指摘するだけの人ではなく、
つくる人だ。
超自我(≒破壊の享楽)の領域こそが、現代の心の闇ではないか、
と直感して、物語を構築しようとしてるのかも知れない。
もうすぐ1クール目終わり、2クール目に入ります。
超自我の奥深くへの第一ターニングポイントが、
13話に来る予定なのでお楽しみに。
posted by おおおかとしひこ at 11:18| Comment(3) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。
先日遅ればせながらシンゴジラを観ました。
全体的に疾走感のあるパロディだなという感想です。
真夏に呑む生ビールの一口めに似た何かです。
エンターテイメントという意味では良く出来ていますが、
そこに何が残るのかと言えば、どうだろう?と思います。
世間の批評から全体主義を危惧しておられるようですが、この感じは仕事後の一杯ぐらいの感じしかしませんです。
Posted by 愚昧1 at 2016年08月31日 16:38
愚昧1様コメントありがとうございます。

観客の全体主義は、僕らがどうにかできるものではないので置いといて、
僕が危惧するのは邦画業界の全体主義ですね。

ビール以外が店頭から消えるのではないでしょうか。
日本酒党のわたくしとしては、一生日本酒を作れないことになるかも知れません。

そのうち、ビール以外の酒は酒と呼ばなくなるかも知れません。
ビール以外の声を業界に示す方法があればいいんですが、
今や過度の市場原理に集約しつつある気がします。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年08月31日 17:01
業界の全体主義なんですね。
今はどのジャンルも商業主義ですものね。
シネコンが一般的になって以来、そうした傾向が顕著になった気がします。
自分も日本酒好きです。好みはありますが、気合いの入った酒蔵のお酒は好きです。
Posted by 愚昧1 at 2016年08月31日 17:33
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