周辺にあるものは、良くできていた。
中心にあるものが、物足りなかった。
これは昨今のビジネスの傾向なのかも知れない。
周辺にあるものとは、
たとえば、
主題歌の使い方、挿入の仕方。
ゴーストバスターズの名の由来や、例のマークの採用過程、
装備ガジェットの面白さ。
最初の洋館での闘い(燭台の仕掛けなんて細かい技!)、
ヘビメタホールのバトル、クライマックスバトルの豪快さ。
(つまり、特撮アクション班を十二分に働かせる)
前作とのリンク。(旧キャストの使い方や、言葉まわり)
脇役の良さ。ホルツマン、イケメン、ヘビメタホールの支配人など。
笑いのキレ。
つまり、「ゴーストバスターズの現代的リブート」
として考えられる様々な関門、「お題」には、
うまく答えていたと思う。
そこの上手さはなかなかの出来だ。
分かってるねえなんてニヤリともする。
だけれど。
この映画は、何を芯に楽しめばいいのだろう?
「ゴーストバスターズの現代的リブート」を中心に楽しむの?
違うよね?
主人公への感情移入、テーマとストーリーとの関係。
その中心にあるもの、そのオリジナリティーを楽しむのが映画だ。
極論すれば、そこが出来てさえいれば、
周辺が多少ボロでも人は認めてくれる。
新人監督だから、予算がないから、などなどで。
(例:ドラマ風魔)
その中心にあるものとは、
「ゴーストガールと呼ばれいじめられた過去を持つ女が、
現在を偽って大学研究者になろうとする。
しかしゴーストは実在し、その退治業務をすることで、
ゴーストガールと言われた過去に誇りを持てるようになる」
というものの筈だ。
そしてクライマックスの流れを察するに、
「女同士の友情」がそれを支える力強いファクターになる、
筈だ。
最初の洋館の事件で彼女は叫んだではないか。
「ゴーストは実在した!」と。
その嬉しい叫びは、YouTubeにアップされたギャグで、
吹っ飛んでしまった。
彼女は、人々が「ゴーストは実在する」と認めれば、
それで望みは果たせたのだろうか?
だとすると、映画としての質が低すぎる。
一幕30分で話は終わってしまう。
その後90分かけて、
彼女の何が変化することが、映画的なストーリーになったのか?
(女の友情がその鍵になっただろうに)
そここそが、この映画の中心になるべきだ。
しかるにこの映画は、「女4人のドタバタゴースト退治」しかしていない。
コメディのプログラムピクチャーでしかなかった。
それはたとえばテレビのバラエティーと変わらないということだ。
テレビと映画しかない時代ならばいざ知らず、
今映画というのはどこででも見れるメディアだ。
これに1800円は高いと思う。
1800円払って、周辺のもののできの良さを楽しむのが、映画か?
1800円払って、中心にある面白さを味わうのが、映画だと僕は思う。
リメイクだろうが、リブートだろうが、
なんだっていい。
「この主人公に感情移入して、良かった」
と言わせれば勝ちだと思う。
それが殆どなかったのが惜しまれる。
周辺にあるものばかり、盛り上げられて行く。
それは、特撮アクション班がいたり、
音楽班がいたり、宣伝班がいたりなど、
複数の人の力の総集だからだ。
役者と監督の総集で、コメディ的な芝居も出来上がってゆく。
しかしその中心になる、
真芯に来るストーリーだけは、
一人で作るものである。
つまりは、脚本家というものに、
300人ぐらいがぶら下がって飯を食っている。
周辺は、周辺なりに力を尽くすから、
そこは良くできている。
問題は真芯だ。
真芯だけが薄っぺらい空洞。
どうやらハリウッドでも、邦画と似たような病が広がっているらしい。
専門分化が進みすぎた弊害か。
それはよく分からない。
少なくとも邦画では、
キャストを抑え、原作を抑え、
資金を確保し、宣伝ルートを確保し、
つまりは周辺を作ってから、
中心になる脚本を書き始めたりする。
中心になる脚本を作ってから、周辺を作ることは、今や殆どしない。
それは、「このビジネスで食わせるのは誰か」と関係しているような気がする。
もちろんそこに、もっとも大事なのは観客の受け取る感動である、
という議論はない。
(勿論感動以外の何かの感情でもいい)
周辺を食わせる為の資金の回転。
ネットで誰かが、公共工事と揶揄していた。
名言だ。
2016年09月05日
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