テーマは主張ではない。
これは何度か議論したし、
他人のみっともないもの(実写キャシャーンクライマックスのモノローグが、
最もダメな恥ずかしい例)を見ればわかるはずである。
にも関わらず、何故だか主張してしまうのは、
無意識に「自分が人前に立っている」と考えてしまうからかも知れない。
「自分が人前に立っている」と思わず、
「ストーリーが人前に立っている」と思うとよい。
あなたは主張者ではなく、
紹介者のつもりでいるとよい。
あなたのストーリーは誰か別のもので
(既にあるものみたいなイメージ)、
それを一番に紹介する人、みたいなことだ。
特に自分が適しているかどうかも関係なく、
是非乞われたからとか、一番得意だからとか、個性を生かして、
ということではなく、
たまたまそばにいたから、
急遽スケジュールの都合で、
ぐらいの感覚で、紹介者になってみよう。
本来だったら別の人がやっていたのだが、
その先輩が倒れたので代打ちとして語り部をすることになった、
みたいなイメージだ。
だとすると、
あなた独自の変な癖やあなたのルサンチマンを、
入れている暇はないはずだ。
純粋に、ストーリーの持つ面白さを損なうことなく伝え、
膨らませる所は膨らませて楽しませ、
欠点になりそうな所はなるべく覆い隠して省略し、
ストーリーの持つ素朴さはそのまま素朴に、
凝った機械仕掛けの部分は精密に、
そのストーリーの含意を、ウインクしながら皆と共有しようとするだろう。
むしろそのストーリーにとっては、
あなたの個性など邪魔なはずだ。
「あなたがいなくなったほうがストーリーが純粋になる」のだが、
語り部がいなくなると話せないので、
やむなく肉体を持つあなたがその役をやっている感覚だ。
イタコみたいなことだね。
イタコに個性やばらつきがあってもね。
「世にも奇妙な物語」のタモリの立ち位置でもいい。
タモリは最初に出ては来るけど、
中身のストーリーにタモリ風味が混ざることはない。
純粋にそのストーリーが語られるだけである。
それでも、あなたのちっぽけな個性や主張をしたくなるのは、
人間なら当然だろうか。
特に若者ならば、世界を支配したい欲望が勝り、実力がついてきていないものである。
そういうときは、
「あなた個人の主張をボソッと言うチョイ役」を出すとよい。
メイン脇役ではダメだ。ストーリーにまともに絡むからだ。
ワンシーンだけ出てくるホームレスだとあざとすぎる。
数シーンは出てくるのだが、直接ストーリーに関与しない人物あたりが理想だ。
よくあるのは、バーのマスター、占い師、床屋のおやじ、滅多に出てこない部長、
などである。
勿論、その人物がボソッと言ったとしても、言わなかったとしても、
ストーリーが影響を受けないことが必要条件だ。
つまり、理屈的にはなくてもいいシーンなのだが、
あるとなんだかホッとする感情のシーンに織り込むといい。
それぐらいの安心度のあるシーンなら、
他人の主張をすっと聞いてくれるからである。
それこそタモリが配役されそうだね。リリーフランキーでもいい。
逆に考えよう。
あなたの個性や主張など、求められていないと。
面白くて深いストーリーが求められているだけだ。
他人の主張を変えさせる、他人のプロパガンダは求められていない。
「みんな無意識に思っているけど、まだ言葉になっておらず、
しかしそう思いたいこと」を、実は無意識に思っていて、
そういうものこそ求められている。(無意識に)
それがあなたの主張と偶然あっていれば万々歳だが、
それはあなたのオリジナリティーではなく、
みんなの集合的無意識にすぎない。
炭鉱のカナリアである。
カナリアはカナリア独自の主張はしない。
空気をいちはやく察し、皆の望み通りに鳴くのみである。
あなたは、空気をいちはやく鳴き声に変換する能力が優れているだけである。
あなたの主張や個性は、そこに必要ない。
主張は、タモリのようなチョイ役にやらせておけ
(コツは後半でなく、前半でやっておくことだ。そうすると伏線になる。
最後の方でやると「結論」に誤読される。
たとえばシンゴジラの「私は好きなようにした、君たちも好きなようにしろ」は、
物語の結論に誤読されている)。
主張は、物語ではなくSNSを利用したほうがストレートだ。
イタコ。タモリ。カナリア。
そのような意識をつくり、主張は別に逃せば、
ストーリーに対して客観的な立ち位置を確保し、
「観客を価値あるストーリーにリードする」という意識がわかるかも知れない。
2016年09月08日
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