2016年09月10日

ストーリーは地図のように俯瞰できない

ストーリーを地図のように、
俯瞰できると思っていた時期が俺にもあった。
しかし最近思う。

地図のように、ストーリーはいかないと。


勿論、初心者の頃のように、
全体像が見えないまま五里霧中になるのを防いだり、
後々のために今やるべきことを想定したりするのに、
地図をつくることは役に立つ。

しかし、その程度にしか地図は役に立たず、
万能ではないと、最近思うのである。

何故なら、
もしストーリーが地図であるならば、
全てのパートは均一な情報の粒度であり、
行程以外の綿密な地図も必要であり、
このルートがベストである証拠が必要で、
ある部分とある部分を入れ換えても無矛盾で、
ショートカットが出来なかったり、
むしろゼロに縮めたり出来ず、
間の行程を伸ばしたり出来ず、
目の前と地図が同時に見えていたり、
するはずたからだ。

実際のところ、地図に出来るオペレーションと、
ストーリーに出来るオペレーションは違うのだ。


ストーリーを俯瞰して地図をつくろう、
なんてことは、たとえばなしに過ぎず、
地図をつくることが、ストーリーをつくることではないのである。

あくまで全体像を作るのは、クロッキーに近いのかも知れない。
デッサンほど明確な形を作らずに、
ラフだが全体の勢いを重視する感じなのかも知れない。

実際にストーリーを作り始めたら、
地図を進む感覚ではなくなるはずである。
どっちかというと、渋滞を上手くさばく交通整理の人のような感覚だ。
下手くそはすぐ渋滞に陥ったり、流れが悪くなってしまう感じ。
全体像はなかなか見えず、目の前しか見えない感じだ。
地図を進む感覚では、
何もかもが計画的に決められている感じだが、
実際の執筆では、目の前の暴走をさばくので精一杯だと思う。
心が動くかどうかしか見てなくて、
全体の行程を意識しながらは無理だろう。
精々冷静に出来るのは、次のシーンへの渡し方ぐらいだ。


もしあなたが全体像を詳細に作っても、
さっぱり書けないのは、
ストーリーを地図だと思い込んでいるからではないか。
「地図のようなもの」でしかないことを、理解しておこう。

ストーリーというのは、目の前の濁流だ。
静止した一点から濁流になるように増水していき、
その行く末を退屈しないように、
止まらぬように、より濁流にしていくのだ。
事前の詳細な計画どおりにはならないので、
アドリブでその方面に濁流を流していくようにするのである。
それが上手く落ちる(地図の果ては決まっている)ように、
その方向に向かい、濁流を制御していくだけなのだ。

おそらく、計画通りに書いた話は面白くないだろう。
段取り通りのサービスが、退屈なことと似ていると思う。

ハプニングや思わず漏れる本音のような、
四角四面から破れたことこそが、
ストーリーを面白くするのではないかなあ。


地図は固定していて動かない。
濁流は時に氾濫し、予定通りに流れずに暴れる。
しかし落ちは決まっている。
前者より後者を意識しよう。
posted by おおおかとしひこ at 11:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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