ストーリーを地図のように、
俯瞰できると思っていた時期が俺にもあった。
しかし最近思う。
地図のように、ストーリーはいかないと。
勿論、初心者の頃のように、
全体像が見えないまま五里霧中になるのを防いだり、
後々のために今やるべきことを想定したりするのに、
地図をつくることは役に立つ。
しかし、その程度にしか地図は役に立たず、
万能ではないと、最近思うのである。
何故なら、
もしストーリーが地図であるならば、
全てのパートは均一な情報の粒度であり、
行程以外の綿密な地図も必要であり、
このルートがベストである証拠が必要で、
ある部分とある部分を入れ換えても無矛盾で、
ショートカットが出来なかったり、
むしろゼロに縮めたり出来ず、
間の行程を伸ばしたり出来ず、
目の前と地図が同時に見えていたり、
するはずたからだ。
実際のところ、地図に出来るオペレーションと、
ストーリーに出来るオペレーションは違うのだ。
ストーリーを俯瞰して地図をつくろう、
なんてことは、たとえばなしに過ぎず、
地図をつくることが、ストーリーをつくることではないのである。
あくまで全体像を作るのは、クロッキーに近いのかも知れない。
デッサンほど明確な形を作らずに、
ラフだが全体の勢いを重視する感じなのかも知れない。
実際にストーリーを作り始めたら、
地図を進む感覚ではなくなるはずである。
どっちかというと、渋滞を上手くさばく交通整理の人のような感覚だ。
下手くそはすぐ渋滞に陥ったり、流れが悪くなってしまう感じ。
全体像はなかなか見えず、目の前しか見えない感じだ。
地図を進む感覚では、
何もかもが計画的に決められている感じだが、
実際の執筆では、目の前の暴走をさばくので精一杯だと思う。
心が動くかどうかしか見てなくて、
全体の行程を意識しながらは無理だろう。
精々冷静に出来るのは、次のシーンへの渡し方ぐらいだ。
もしあなたが全体像を詳細に作っても、
さっぱり書けないのは、
ストーリーを地図だと思い込んでいるからではないか。
「地図のようなもの」でしかないことを、理解しておこう。
ストーリーというのは、目の前の濁流だ。
静止した一点から濁流になるように増水していき、
その行く末を退屈しないように、
止まらぬように、より濁流にしていくのだ。
事前の詳細な計画どおりにはならないので、
アドリブでその方面に濁流を流していくようにするのである。
それが上手く落ちる(地図の果ては決まっている)ように、
その方向に向かい、濁流を制御していくだけなのだ。
おそらく、計画通りに書いた話は面白くないだろう。
段取り通りのサービスが、退屈なことと似ていると思う。
ハプニングや思わず漏れる本音のような、
四角四面から破れたことこそが、
ストーリーを面白くするのではないかなあ。
地図は固定していて動かない。
濁流は時に氾濫し、予定通りに流れずに暴れる。
しかし落ちは決まっている。
前者より後者を意識しよう。
2016年09月10日
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