濁流論続き。
濁流にいるとき、人は冷静か?
そうじゃないだろう。
感情は乱れ、動揺し、経験したこともない大声をあげるかも知れない。
それは主人公だけでなく、他の登場人物も同様だ。
緊急事態なのである。
平常時ではない、非日常の事件が起こっていて、
それを解決しなければならないのだ。
冷静沈着に対応できる規模ではないから、映画なのだ。
ゴジラ襲来から、あの子が転校してしまうまで、
映画では様々な事件を扱う。
どんな事件であれ、
冷静になれないくらいの事件こそ、映画の真骨頂だ。
つねにドキドキしている。
つねにアドレナリンが出ている。
(勿論、でぱなしでは疲れるから休むこともある)
そうなるように、あなたが調整するべきである。
落ち着いたら負け、ぐらいに考えると良いかも知れない。
常に事件は未解決だ。
解決がラストだから。
事件が未解決の不安の状態こそが、映画では常態なのである。
つまり、濁流のベースの感情は不安なのだね。
そこに緊急性の大小や、感情の大小でアレンジされた、
一筋縄ではいかない渦がうねる様が、濁流である。
勿論、冷静であろうとするのが人間であり、
その姿は尊い。
しかし女子供は叫ぶし、涙も流す。
感情は乱れる。それは不安だからだ。
つまり、ストーリーを描くということは、
その感情の乱れを延々とバリエーション豊かに最後まで飽きさせず、
不安定と安定の間を行き来しながら書くということなのだ。
主人公やその他の全ての人について。
叫べ。涙を流せ。汗をかけ。汁を出せ。
血を流せ。死ね。震えろ。焦点の定まらない目をしろ。
沈黙せよ。早口になれ。何をいってるか分からない状態になれ。
落ち着け。冷静に努めよ。しかし拳は震えろ。
笑え。遠い目をしろ。うつむけ。上を見ろ。
丸まれ。とべ。備えろ。爆発せよ。不安のまま眠れ。
複雑な感情になれ。
そんなようなことを描くのが、映画という濁流である。
2016年09月11日
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