2016年09月11日

つまり、感情は乱れる

濁流論続き。

濁流にいるとき、人は冷静か?

そうじゃないだろう。
感情は乱れ、動揺し、経験したこともない大声をあげるかも知れない。
それは主人公だけでなく、他の登場人物も同様だ。
緊急事態なのである。
平常時ではない、非日常の事件が起こっていて、
それを解決しなければならないのだ。
冷静沈着に対応できる規模ではないから、映画なのだ。

ゴジラ襲来から、あの子が転校してしまうまで、
映画では様々な事件を扱う。
どんな事件であれ、
冷静になれないくらいの事件こそ、映画の真骨頂だ。
つねにドキドキしている。
つねにアドレナリンが出ている。
(勿論、でぱなしでは疲れるから休むこともある)
そうなるように、あなたが調整するべきである。
落ち着いたら負け、ぐらいに考えると良いかも知れない。

常に事件は未解決だ。
解決がラストだから。
事件が未解決の不安の状態こそが、映画では常態なのである。

つまり、濁流のベースの感情は不安なのだね。

そこに緊急性の大小や、感情の大小でアレンジされた、
一筋縄ではいかない渦がうねる様が、濁流である。


勿論、冷静であろうとするのが人間であり、
その姿は尊い。
しかし女子供は叫ぶし、涙も流す。
感情は乱れる。それは不安だからだ。

つまり、ストーリーを描くということは、
その感情の乱れを延々とバリエーション豊かに最後まで飽きさせず、
不安定と安定の間を行き来しながら書くということなのだ。

主人公やその他の全ての人について。

叫べ。涙を流せ。汗をかけ。汁を出せ。
血を流せ。死ね。震えろ。焦点の定まらない目をしろ。
沈黙せよ。早口になれ。何をいってるか分からない状態になれ。
落ち着け。冷静に努めよ。しかし拳は震えろ。
笑え。遠い目をしろ。うつむけ。上を見ろ。
丸まれ。とべ。備えろ。爆発せよ。不安のまま眠れ。
複雑な感情になれ。

そんなようなことを描くのが、映画という濁流である。
posted by おおおかとしひこ at 10:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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