2016年09月11日

独善的とオリジナリティーの違い

どちらも同じように思える。

他の誰にも似てなくて、
過去の何にも似てなくて、
独自のことをやることは、
創作の定義のようなものだ。

それが、
独善的と言われたり、
オリジナリティー溢れる、と言われることの差は何だろう。


ただ一点、
「皆がついていけるか、いけないか」の違いではないだろうか。
その作品単体では違いは出ず、
その受け入れられ方の違いではないだろうか。

皆がついていけないのは、独善的と謗りをうけ、
皆がついていけるのは、オリジナリティー溢れるとみなされる。


ちなみにオリジナリティーには二つあって、
無知な人が見ればオリジナルに見えても、
有識者から見れば他のオリジナルをパクっているものがある。
たとえばペプシの桃太郎は、
沢山の元ネタ映画からパクっていて、
僕は一々それを指摘することでオリジナリティーがない、
と言っているのだが、
オリジナルを見てない人には、スゲーカッケーとしか見えていないかも知れない。

僕はこれは詐欺だと思う。
勿論、どこまでをパクりと考えるか、
どこまでをインスパイアと考えるかは、
難しい線引きではある。(にしても桃太郎は露骨すぎる)



さて、独善的とオリジナリティーの差。

たとえば、
皆に受け入れられないテーマは、独善的である。
皆に受け入れられない主人公は、独善的である。
皆に受け入れられない展開は、独善的である。

しかし、その独善的なものが、
話を通じて、納得がいけば、それはオリジナリティーに変わりうる。

簡単には皆に受け入れられないテーマは、
話を通じて理解することで、
独善的なものから、説得力のあるオリジナルなテーマになりえる。

たとえば相対性理論の結論「重力は光を曲げる」は、
理論的な計算というストーリーを経て皆を説得する。
勿論その理論的展開についていけない人が多いから、
それは嘘だ、独善的結論だと謗りをうけるかも知れない。
しかしどうやら理論的な筋道は説得力があるわけだから、
理解した人は妥当と結論付ける。

実際この結論が皆に受け入れられたのは、
証拠が見つかったときだ。
逆に証拠がなければ、鼻つまみ話でしかなかったということだ。


オリジナルな境地にいることは、
とても大事なことである。
しかしそれを表現する際において、
説得力あるかないかを、常に意識してみよう。

説得力あるかどうかは、他人の目線から見ないと分からない。
架空の他人を呼び出して、その他人の目から見るのである。
その他人の精度が低ければ、予想の精度も低くなる。
他人というものはどのようなものであるか、
を理解することは、表現者としてだいじなことである。

ところで、日本人の観客としての民度が下がっているような気がする。
万年低迷中のテレビのせいか、ネットのせいか、
教育制度の崩壊か、文化意識の低落か、
原因は分からない。
明らかに、不寛容がひろがり、多様性が失われ、
文化の権威が落ちていると思う。
まあギリシャ時代からそうなのかも知れないけれど。

脇道にそれた。


独善的か、オリジナリティーか。
それはあなたの作品内では決まらない。
外が決めることである。

あなたに出来ることは、
分かりやすく提示すること(コントラストを強めたり、構造を簡単にしたり)、
説得力を強めること(証拠の提示は強い説得、理屈を分かりやすくすることは弱い説得)、
どんな人にも当てはまるように提示していくこと、
いろんな人の反論を想定して、その反論が起きないように整理すること、
感情が動くようにすること(物語は理屈ではないところが強い)、
などではないだろうか。

提示の仕方を変えるだけで、
途端に理解者が増えることは現実でもよくあることだ。
何故なら人はガワで偏見を持つからである。
ガワに左右されず本質を見抜ける人はそうはいない。
だからガワを変えて、本質を取りやすくする努力は、
独善をオリジナリティーに変える可能性がある。
posted by おおおかとしひこ at 16:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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