どちらも同じように思える。
他の誰にも似てなくて、
過去の何にも似てなくて、
独自のことをやることは、
創作の定義のようなものだ。
それが、
独善的と言われたり、
オリジナリティー溢れる、と言われることの差は何だろう。
ただ一点、
「皆がついていけるか、いけないか」の違いではないだろうか。
その作品単体では違いは出ず、
その受け入れられ方の違いではないだろうか。
皆がついていけないのは、独善的と謗りをうけ、
皆がついていけるのは、オリジナリティー溢れるとみなされる。
ちなみにオリジナリティーには二つあって、
無知な人が見ればオリジナルに見えても、
有識者から見れば他のオリジナルをパクっているものがある。
たとえばペプシの桃太郎は、
沢山の元ネタ映画からパクっていて、
僕は一々それを指摘することでオリジナリティーがない、
と言っているのだが、
オリジナルを見てない人には、スゲーカッケーとしか見えていないかも知れない。
僕はこれは詐欺だと思う。
勿論、どこまでをパクりと考えるか、
どこまでをインスパイアと考えるかは、
難しい線引きではある。(にしても桃太郎は露骨すぎる)
さて、独善的とオリジナリティーの差。
たとえば、
皆に受け入れられないテーマは、独善的である。
皆に受け入れられない主人公は、独善的である。
皆に受け入れられない展開は、独善的である。
しかし、その独善的なものが、
話を通じて、納得がいけば、それはオリジナリティーに変わりうる。
簡単には皆に受け入れられないテーマは、
話を通じて理解することで、
独善的なものから、説得力のあるオリジナルなテーマになりえる。
たとえば相対性理論の結論「重力は光を曲げる」は、
理論的な計算というストーリーを経て皆を説得する。
勿論その理論的展開についていけない人が多いから、
それは嘘だ、独善的結論だと謗りをうけるかも知れない。
しかしどうやら理論的な筋道は説得力があるわけだから、
理解した人は妥当と結論付ける。
実際この結論が皆に受け入れられたのは、
証拠が見つかったときだ。
逆に証拠がなければ、鼻つまみ話でしかなかったということだ。
オリジナルな境地にいることは、
とても大事なことである。
しかしそれを表現する際において、
説得力あるかないかを、常に意識してみよう。
説得力あるかどうかは、他人の目線から見ないと分からない。
架空の他人を呼び出して、その他人の目から見るのである。
その他人の精度が低ければ、予想の精度も低くなる。
他人というものはどのようなものであるか、
を理解することは、表現者としてだいじなことである。
ところで、日本人の観客としての民度が下がっているような気がする。
万年低迷中のテレビのせいか、ネットのせいか、
教育制度の崩壊か、文化意識の低落か、
原因は分からない。
明らかに、不寛容がひろがり、多様性が失われ、
文化の権威が落ちていると思う。
まあギリシャ時代からそうなのかも知れないけれど。
脇道にそれた。
独善的か、オリジナリティーか。
それはあなたの作品内では決まらない。
外が決めることである。
あなたに出来ることは、
分かりやすく提示すること(コントラストを強めたり、構造を簡単にしたり)、
説得力を強めること(証拠の提示は強い説得、理屈を分かりやすくすることは弱い説得)、
どんな人にも当てはまるように提示していくこと、
いろんな人の反論を想定して、その反論が起きないように整理すること、
感情が動くようにすること(物語は理屈ではないところが強い)、
などではないだろうか。
提示の仕方を変えるだけで、
途端に理解者が増えることは現実でもよくあることだ。
何故なら人はガワで偏見を持つからである。
ガワに左右されず本質を見抜ける人はそうはいない。
だからガワを変えて、本質を取りやすくする努力は、
独善をオリジナリティーに変える可能性がある。
2016年09月11日
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